国際プロレス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国際プロレス(こくさいぷろれす)は、かつて存在した日本のプロレス興行団体。なお国際プロレスは通称で、正式社名は「インターナショナル・レスリング・エンタープライズ(International Wrestling Enterprise)」である。名付け親はプロレス評論家の菊池孝。会社事務所は高田馬場、道場は埼玉県大宮市(現:さいたま市)に存在した。
目次 |
[編集] 概要
1967年1月18日に東京都浅草台東体育館で、アントニオ猪木の東京プロレスとの合同興行で旗揚げ。TBSと東京12チャンネルで定期放送されていた。テレビの定期放送終了の半年後、1981年8月9日の北海道羅臼町大会で活動を停止した。
創業者の吉原功社長は、早稲田大学レスリング部出身の元プロレスラーで、日本プロレス営業部長を務めていたが、力道山の死後、経営方針を巡る対立で日本プロレスを退社した人物。1967年の国際プロレス旗揚げ時には、アメリカで活躍する日本人プロレスラー、ヒロ・マツダを招聘してエースに目論んだが、グレート・東郷の関与を嫌いヒロは間もなく離脱。新人のサンダー杉山とグレート草津のダブルエース体制で臨むことになる。しかしエースと目論んだ草津は後述のようにテレビでの旗揚げ第1戦でルー・テーズに失神負けを喫する失態を演じ、その後は、ストロング小林、ラッシャー木村といったレスラーがエースとして活躍している。
1970年代には、新日本プロレス、全日本プロレスに次ぐ第三の団体という位置付けだったが、エースのストロング小林の離脱などスター選手不在に悩み、両団体と比較するとマイナー感は否めなかった。話題作りもあって、(メインイベントではゴングを5回鳴らした後に)選手入場時のテーマ曲の実施、61分3本勝負、日本人選手同士の対戦、日本人初の覆面レスラー「覆面太郎」、金網デスマッチ、「独立愚連隊」による軍団抗争など、後に日本のプロレスで一般的になったことをいち早く取り入れるなど、進取の気風に富んでいたともいえる。また、吉原社長が日本レスリング協会会長の八田一朗ともパイプがあったことで、ヨーロッパに独自のコネクションを持ち、国際プロレスで初来日を果たした選手も少なくない。
[編集] 金網デスマッチ
新日本も全日本も当時実現しなかった金網デスマッチは、正に国際の真骨頂といった感じはあった。たださすがに流血戦の中継はこれまであるものの、金網ともなると流血の度合いが夥しい為、凶器攻撃や金網に乱打している最中は「このシーンは凄惨な為、放送をご容赦下さい」というテロップと観客席を映しそのシーンを映さない策が講じられた(その映像のカットは激しい流血を伴う凶器攻撃の最中だけで、攻撃が終了した後は、夥しい流血になろうと中継をカットする事はなかった)。
国際プロレスとしては、この金網デスマッチは一回のみと考えていたが、最初の試合を東京で行った後、大阪のプロモーターから「東京でやったのなら大阪でも」と要求され、仕方なく行ったが、その後も各地のプロモーターから開催の要望が来た為、乱発せざるを得なくなり、マンネリ化により団体の首を締める結果となってしまう。
- ※串間努「少年ブーム」、森達也「悪役レスラーは笑う」等によれば、この流血シーンの放送自粛処置の発端は1962年、フレッド・ブラッシー選手が日本プロレスに参戦していた頃、その試合中の流血で、カラーテレビで視聴していた老人が2人ショック死したことが挙げられる。その後一時カラー放送が中止されている。
[編集] 外国人選手の招聘
当時の日本プロレス界は、「外国人至上主義」であり、プロレスのメッカはアメリカであった。大物外国人をアメリカマットから連れてくることこそステータスの時代であったが、日本ではNWAその他のコネクションをジャイアント馬場が持っていたこともあって、新日本、国際はアメリカにコネクションが無かった。そのため吉原社長は、ヨーロッパに独自のコネクションを作り上げ、モンスター・ロシモフ(のちのアンドレ・ザ・ジャイアント)やビル・ロビンソンなどの多くの強豪外国人プロレスラーが、国際プロレスで初来日を果たした。
又、全日本プロレスはNWA、新日本プロレスはWWF(現WWE)と提携していた為、後に当時のアメリカの3大メジャー団体だったAWAと提携を結び、日本国内でタイトルマッチも行ったりしている(アンドレがアメリカに行くきっかけをつくったのも、この提携から)。
[編集] テレビ放送
旗揚げから1年後の1968年1月からTBSでレギュラー番組として放送。一時はTBSプロレスの団体名を名乗った。TBSでの打ち切りが決定すると、TBS運動部長の森忠太の紹介で、1974年10月から東京12チャンネル(現・テレビ東京)で放送されるようになり、1981年3月まで定期放送(放送時間は1974年10月から1980年9月までが毎週月曜20:00~20:54。1980年10月から1981年3月までは毎週土曜20:00~20:54)された。なお定期放送終了後も1981年5月3日18:00~、同9月16日及び9月23日24:15~にそれぞれ1時間「特番」として中継があった。
[編集] テレビ旗揚げ第1戦
TBSテレビの放送の第1回のメインイベントは、王者ルー・テーズ対グレート草津のTWWA世界ヘビー級選手権試合。試合前、TBSの関係者がテーズに対し、エースに目論んでいた草津に「花を持たせる」ことをそれとなく要求する。歴戦をくぐり抜けNWA世界ヘビー級王座にも就いたテーズにとって、キャリア3年にも満たず大きな実績もない草津に負けることなど認めがたいことであり、大いに憤慨。吉原もTBS側の無礼ぶりを認めたが、「TBSに顔が立たないから表面上は了承したふりをしていてほしい。でも実際に従う必要はない」とテーズに語り、テーズも了承する。
そして試合が始まる。草津の受身が未熟であることを見抜いたテーズは、必殺のバックドロップを見舞う。現在残された写真では、急角度の危険なものではなかったが、食らった草津はあえなく失神。草津自身は失神はしておらず、セコンドにいたグレート・東郷の指示で寝ていただけだと語っている。草津はそのまま試合放棄となり敗戦となり、TBSの目論みは潰れることとなった。「エース」が(TV放映の)初戦でこのような無残な負け方をするなど前代未聞であり、その後の国際の苦難の道を暗示した一戦といわれる。
[編集] 団体崩壊後
団体崩壊後は、新日本プロレスとの対抗戦を模索するが、マイティ井上、阿修羅・原、ウルトラセブン(高杉正彦)らはそれに反発し、全日本プロレスに移籍し(フリーになったり引退するレスラーもいた)、ラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇の3人のみが新日本プロレスに国際軍団としてリングに上がり、ヒールとして、新日本プロレスのファンから憎悪を一身に浴びる事になる。
[編集] 所属選手
- 長めのパンチパーマに黒タイツは不動のエース
- 1974年の新日本の猪木戦を機に新日本へ移籍。北米タッグ等タイトル奪取し引退しストロング金剛として坊主になり強面のタレントになる
- 東京オリンピックのレスリング日本代表、雷電ドロップ(ヒップドロップ)を得意としていた。後にビジネスを興し成功するが糖尿病を患い、2002年逝去。
- 現在はプロレスリング・ノア専属レフェリー兼テレビ中継解説者
- 空中殺法を得意にし、”和製カーペンティア”の異名有り
- 大位山と独立愚連隊結成し、後に自ら歩む悪党の世界の礎となる。)
- 大位山勝三
- マッハ隼人
- スネーク奄美
- 阿修羅・原
- 崩壊時のエースで、崩壊後全日本に移籍
- アポロ菅原
- ミスター珍
- 若松市政(現:将軍KYワカマツ)
- 高杉正彦
- 米村天心
- ジャック・クレイボーン(稲妻二郎の実兄)
- 稲妻二郎(現:ジェリー・モロー)
- 秋吉豊幸
- 扇山大五郎
- 大磯武
- 大剛鉄之助
- 竹下民夫
- 田中忠治
- デビル紫
- 長沢秀幸
- 肥後宗典
- 松村幸治
- マティ鈴木
- マンモス鈴木
- ヤス・フジイ
- レフェリー・遠藤光男(アームレスリング世界一の触れ込みで途中より参加)
[編集] 外国人選手
- ビル・ロビンソン
- バーン・ガニア
- ニック・ボックウィンクル
- ルー・テーズ
- モンスター・ロシモフ
- カール・ゴッチ
- オックス・ベーカー
- アレックス・スミルノフ
- ジプシージョー(驚異的なタフネスぶりでデスマッチで活躍。自らパイプ椅子を相手に渡し、背中を殴打しろと仕向ける)
- クレージー・セーラー・ホワイト
- キラー・ブルックス
- マイク・ジョージ