東予市
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[編集] 地理
市名の由来
- 合併による新市の名を検討するなかで、合併・誕生当時は東予新産業都市(新産都)の開発が進んでいた時期であり、用地に恵まれた東予市には工場が多数立地し、人口も増えて、将来的には「東予地域」の中でも中核的地域になるのではないかとの将来に向かっての希望があり、そうした夢も込めて「東予市」としたとされている。
- 本来、東予は本来、「伊予」の「東」という意味で、東予市を含む、愛媛県東部一帯の広い地域域を表現する名称である。具体的な市町村としては、東は川之江市(合併し四国中央市)から西は周桑郡丹原町(同じく西条市)や越智郡菊間町(同じく今治市)までの広い地域である。
- 合併により、自治体としての「東予市」は消滅したが、港名は東予港であり、カーフェリーも発着している。その意味では「東予」という地名は地図上に確かに残っているといえる。(なお、「東予」という駅はない。特急停車駅は壬生川駅。)
[編集] 歴史
※これ以前の歴史は壬生川町(にゅうがわちょう)の記事を参照のこと。
- 1971年(昭和46年)1月1日:周桑郡壬生川町と三芳町が合併(新設合併)して東予町となる。
- 1972年(昭和47年)10月1日:市制施行して東予市となる。
- 1973年(昭和48年)1月:愛媛県立壬生川工業高等学校(後の愛媛県立東予高等学校)、サッカー全国大会に出場
- この後1974年(昭和49年)、1976年(昭和51年)にも出場。
- 1973年(昭和48年)3月:住友重機械工業東予製造所操業開始
- 臨海工業地帯の発展始まる
- 1977年(昭和52年)5月:市庁舎落成
- 1978年(昭和53年)10月:国鉄予讃本線の特急列車、壬生川駅に停車開始
- 1988(昭和63年)6月:田窪工業所東予工場操業開始
- 1993年(平成5年)11月:中山川ダム研究推進協議会設立。後に曲折を経て建設中止に。
- 1994年(平成6年)3月:本谷温泉館完成
- 1995年(平成7年)3月:運動公園野球場完成
- 1999年(平成11年)10月:日新製鋼東予製造所操業開始
- 臨海部への久しぶりの大型工場の進出となった。
- 1999年(平成11年)11月:林芙美子、宮田麻太郎記念碑完成
- 2001年(平成13年)4月:愛媛県立東予工業高校、普通科を設置し愛媛県立東予高等学校に改称
- 2001年(平成13年)4月:本谷温泉館リニューアルオープン
- 2004年(平成16年)11月1日:西条市、周桑郡丹原町、小松町と合併(新設合併)し、西条市の一部となり、消滅した。
[編集] 行政
- 歴代市長
- 初代-河上辰男(昭和47年10月~5期)
- 第2代-青野照雄(平成3年2月~1期)
- 第3代-青野勝(平成7年2月~合併まで、3期)
- 平成の市町村合併の経緯
- 今治市と西条市に挟まれる形となっている東予市としては、周桑郡の2町(丹原町、小松町)とともに1市2町での合併という選択肢もありえたが、小松町が早々と西条市とともに合併する方針を明らかにし、丹原町も同調する動きを見せたので、東予市もより大きな市となって行政力を高め、四国中央市、新居浜市、今治市に伍していくという観点から、これに合流した。合併協議の過程では、市庁舎が西条市庁舎に決定し、新市名も「西条市」となるなど、旧:西条市のペースでことが進むのに心情的に反発したり、「東予市」あるいは「東予」という地名がなくなってしまうことを惜しむ声もあった。
- なお、新居浜市も含めた大東予市的な構想は新居浜市が積極的に推進する姿勢を見せず、また西条市も乗り気を見せず、将来の課題として扱うこととなった。
[編集] 経済
[編集] 工業
- 主な工場
[編集] 商業
- 主なスーパー
- 主な電器店
[編集] 電力業
- 住友共同電力壬生川火力発電所
[編集] 地域
[編集] 教育
- 愛媛県立東予高等学校(元東予工業高等学校)
[編集] 交通
[編集] 鉄道路線
[編集] 道路
[編集] 有料道路
[編集] 国道
[編集] 県道
- 主要地方道
- 愛媛県道13号壬生川新居浜野田線
- 愛媛県道48号壬生川丹原線
- 一般県道
- 愛媛県道143号壬生川港小松線
- 愛媛県道144号南川壬生川停車場線
- 愛媛県道148号東予港三津屋線
- 愛媛県道150号徳能伊予三芳停車場線
- 愛媛県道154号東予玉川線
- 愛媛県道159号孫兵衛作壬生川線
[編集] 出身有名人
[編集] 関連項目
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