東久邇宮
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東久邇宮(ひがしくにのみや)は、明治時代後期、久邇宮朝彦親王の王子、稔彦(なるひこ)王が創立した宮家。
東久邇宮稔彦王は、久邇宮朝彦親王の九男として、1887年(明治20年)に誕生。1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を明治天皇から受け一家を立てた。1915年(大正4年)に明治天皇の第9皇女・聰子(としこ)内親王と結婚。陸軍に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。1920年(大正9年)にフランスに留学し、フランス陸軍大学を卒業。大正天皇の勅命で帰国するまで、フランスでの生活に耽溺し、帰国した時には、皇族の中でも、自由主義者として知られるようになっていた。
その後は、第二師団長、第四師団長、航空本部長を歴任。日中戦争では、第二軍司令官として、華北に駐留する。太平洋戦争では、防衛総司令官・陸軍大将。日米開戦直前の1941年(昭和16年)には、第3次近衛文麿内閣総辞職を受けて後継首相に名が上がる。皇族を首相にして内外の危機を押さえようとする構想であったが、皇室に累を及ぼさぬようにということでこの構想は潰れた。戦局が不利になると和平を唱え、東条英機内閣に反対する立場に回った。
1945年(昭和20年)終戦を迎えるが、終戦処理内閣を組閣。最初で最後の皇族内閣を成立させ、自ら首相と陸軍大臣を兼ねる。連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、一億総懺悔を唱えた。しかし、治安維持法の強化、国体護持をめぐって、連合国軍最高司令官総司令部と対立し、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。
1947年(昭和22年)に皇籍離脱するが、その後の生涯も波乱に満ちたものであった。最初に新宿に闇市の食料品店を開店。売上が全く伸びず、喫茶店に転業するも閉店。宮家所蔵の骨董品を売り出したがうまく行かない。更には自ら教祖となって、新宗教団体「ひがしくに教」を起こすが、東京都の許可が下りなかった。戸籍を増田きぬ(自称:東久邇紫香)なる女性に乗っ取られたりと晩年まで話題に事欠かなかった。1990年(平成2年)7月20日、102歳で死去。記録の確かな皇族では、最高齢の記録である。そして、首相経験者では世界最高齢である。
稔彦王と聰子妃の間には、盛厚(もりひろ)王、師正王、彰常王、俊彦王の4人の男子がいる。
長男の盛厚は、昭和天皇の第1皇女・照宮成子内親王と結婚。2人の間には、信彦王、文子、基博(前名:秀彦、壬生家養子)、眞彦、優子の5人の子供が生まれた。成子内親王は1961年(昭和36年)に死去し、その後盛厚王は寺尾佳子と再婚し、厚彦(寺尾家養子)、盛彦の2男をもうけた。1969年(昭和44年)に肺癌のため死去した。
師正王は、関東大震災で死亡。彰常王は、臣籍降下し、粟田侯爵を名乗った。俊彦王は、サンパウロ総領事多羅間鉄輔未亡人キヌの養子となり、ブラジルに移民。その子息は、祖父にちなんでアルフレッド稔彦と名付けられた。
また、あまり知られていないが東久邇宮稔彦王自身、留学の経験から欧米と日本の技術力の差を感じており、遅れをとっていたアジアの技術力の向上を目指して興亜工業大学(現千葉工業大学)の創設に携わった。特に東久邇宮稔彦王は、同大学の航空工学科(戦後GHQにより閉学される)・機械工学科の設置に心骨を注いだと言われている。