村山実
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村山 実(むらやま みのる、1936年12月10日 - 1998年8月22日)は兵庫県神戸市北区生まれ、尼崎市出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。1963年の一時期「-昌史(まさし)」に改名。フォークボールを武器に活躍し、2代目「ミスタータイガース」と呼ばれる。
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[編集] 来歴・人物
尼崎市の住友工業高等学校(現・尼崎市立尼崎産業高等学校)から大学野球を目指し立教大学のセレクションを受ける。しかし、身長が低いことを理由に落とされる。結局関西大学に進学。のちに阪急・オリックス、日本ハム監督となる上田利治とバッテリーを組み、2年生のときには全日本大学野球選手権に出場し全試合完投で優勝に貢献する。この優勝は西日本の大学としては初の快挙であった。
1958年、阪神電鉄に入社し出向の形で大阪タイガースに入団した。読売ジャイアンツからは阪神の4倍の契約金を積まれたが、関西で生まれ育ったからと拒否したといわれる。主席入学の上田と違って大学での成績は芳しくなかったようだ。卒業試験の時、問題がちんぷんかんぷんで答案用紙には何も書こうとせず黙って腕組みをしているだけだった。すでに阪神と契約をすませており、教授からは名前を書くだけでいいからそれで卒業にしてやると言われて名前だけ書いて何とか卒業することが出来たそうだ。
プロ初登板は1959年3月2日、阪神甲子園球場での巨人戦(オープン戦)。初代ミスタータイガース・藤村富美男の引退試合の日でもあった。当初は前日の予定も雨天中止のため月曜日の試合となったにもかかわらず、3万人の観衆を集め華々しく行われた。このとき村山は2回を投げ打者7人と対し、被安打1、無失点に抑えた。公式戦初登板は同年4月14日の国鉄(現ヤクルト)戦。初先発でもあった。ただ、この日は火曜日ながらデーゲームであり、観客はたったの34人しかいなかったという。ちなみに、国鉄の先発は金田正一。結果は村山が6回までノーヒットに抑える好投で、2安打完封という鮮烈デビューであった。
同年6月25日の天覧試合では、巨人の長嶋茂雄にレフトポール際へのサヨナラホームランを打たれた(この時はリリーフで登板)。微妙な判定であったため、村山は死ぬまで「あれはファールだった」と言っている。以来、村山VS長嶋のライバル関係ができあがった。
闘志むき出しで全身を使ったダイナミックなピッチングは「ザトペック投法」と呼ばれた。
村山のウィニングショットはフォークボールである。オーバースロー、スリークォーター、サイドスローで投げ分けられるフォークは空振りを量産した。村山は小柄で指も短かったため握力強化などに努めた。フォークの落ちの悪さに悩み込み、人差し指と中指の間の付け根をカッターで切り付けようとしたこともあった。
1962年、1964年のリーグ優勝に貢献。1962年には最高殊勲選手を獲得した。1967年頃より右腕の血行障害に悩まされエースの座を江夏豊に譲る。1969年は兼任投手コーチ。1970年より兼任監督。同年200勝達成、この年記録したシーズン防御率0.98は戦後唯一の0点台記録。1972年シーズン限りで現役引退、監督退任(この年は4月21日から金田正泰ヘッドコーチに監督をゆだねた)。背番号11は永久欠番となった。
通算222勝は大卒の投手としてはチームの大先輩・若林忠志以降、最多勝記録である(阪神の投手勝利数の記録でも若林に次ぐ2位)。1973年3月の引退試合(巨人とのオープン戦)では、王・高田らをフォークボールで三振に切って取る。(長嶋は発熱の為大阪入りせず)村山登板の際には江夏の音頭で投手陣が作った騎馬に乗ってラッキーゾーン(当時ブルペンはラッキーゾーンにあった)から登場、満場の拍手に迎えられた。
捕手の田淵に「今日は涙で見えないから全部フォークでいく」と言い、その通り実行した。「ムラさんまだまだイケルよ!今日のフォークは最高だった」と告げるとまた涙でむせ返った。この試合では女優の浪花千栄子(同年12月死去)があいさつし、「村山はん、あんたほんまに長いことようおきばりやしたなぁ。おおきに、おおきに」とねぎらいの言葉を贈った。
1973年~1987年は日本テレビ(系列局・よみうりテレビも兼任)の野球解説者となる。1988年~1989年に再び阪神監督になり、自身の永久欠番の11を付ける。大野久・和田豊・中野佐資の若手選手3人を「少年隊」と命名して売り出し、話題を作るが成績は6位・5位と低迷した。在任中、ドラフト会議で立命館大学の古田敦也捕手(現・ヤクルト選手兼任監督)の獲得を球団に進言したものの、眼鏡をかけているという理由で拒否されたことを、のちにテレビ番組で話している。1989年退任。
1990年からは朝日放送の野球解説者となる。1993年野球殿堂入り。現役時代から実業家の資質に長けており、村山自身、芦屋市のマンションを購入して自分自身の会社の本社にしたというエピソードは有名である。その自宅マンションは、阪神・淡路大震災で被災した。1998年8月22日、直腸ガンのため死去。享年61。なお、出身校の尼崎産業高校には、2004年に銅像が建てられた。
エースとは投げる後姿で野手に語りかける物という持論を持っており、黒木知宏(ロッテ)らのエース観において多大なる影響を与えている。
[編集] エピソード
- 1963年8月11日の巨人戦で、リリーフに登板したが球審の「ボール」の判定に涙を浮かべて激しく抗議し、暴言を吐いたとして退場処分になった。このとき村山は最初の打者(池沢義行)との対戦中であり、「1人の打者との対戦が終わるまで投手は交代できない」という野球規則の例外記録となった。なお、村山は前日の同一カードでは8回までノーヒットというピッチングをしており、それを破られたのはこの日対戦していたのと同じ池沢だった。
- 1500奪三振、2000奪三振は長嶋茂雄から奪っている。これは本人がほかの打者はわざと打たせて取り、長嶋のときだけは三振を意図的に狙って取ったためである。
- 初めて購入した自宅の電話番号が「3279」、つまり3(長嶋)に泣く、ということだったが、当時電話を引くのだけでも大変だった時代のためしばらくはこの電話番号を使っていた。
- 相手をノーヒットに抑え完投しながら味方の失策などで失点を許す“ノーヒットありラン”を2度も記録している。いずれも勝利投手。
- 愚直なまでのまっすぐな性格が災いして、多くの誤解を生んだ。経営者として数多くの社員を統制し、業績も上げたが、肝心の監督業ではあまり評価されていない。
- スポニチ大阪本社常務取締役編集担当のT氏がトラ番記者の頃、1966年6月28日の札幌シリーズでの巨人戦、朝5時に村山から電話が掛かってきて「一緒に散歩しないか?気持ちいいよ。今日は出番がありそうだから。」ネタも欲しい記者は渋々同行・・・。あるホテルの前で巨人の選手がカップルで歩いている。相手は拝むポーズ、両者逃げるようにバイバイ。「これだけは書かないでくれ」と村山。
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最多勝 2回(1965年~1966年)
- 最高勝率(1970年)
- 最優秀防御率 3回(1959年、1962年、1970年)
- 最多奪三振 2回(1965年~1966年)
- MVP(1962年)
- 沢村賞 3回(1959年、1965年~1966年)
- ベストナイン 3回(1962年、1965年~1966年)
- 野球殿堂入り (1993年)
- シーズン最優秀防御率 0.98 (1970年 セ・リーグ記録)
[編集] 通算成績
- 509試合登板 222勝147敗 2271奪三振 防御率2.09
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970年 | 昭和45年 | 2位 | 130 | 77 | 49 | 4 | .611 | 2 | 110 | .245 | 2.36 | 34歳 | 阪神 |
1971年 | 昭和46年 | 5位 | 130 | 57 | 64 | 9 | .471 | 12.5 | 101 | .220 | 2.76 | 35歳 | |
1972年 | 昭和47年 | 2位 | 130 | 71 | 56 | 3 | .559 | 3.5 | 125 | .239 | 3.00 | 36歳 | |
1988年 | 昭和63年 | 6位 | 130 | 51 | 77 | 2 | .398 | 29.5 | 82 | .248 | 3.82 | 52歳 | |
1989年 | 平成元年 | 5位 | 130 | 54 | 75 | 1 | .419 | 30.5 | 135 | .257 | 4.15 | 53歳 |
- ※1970年から1996年までは130試合制
[編集] 関連項目
- ※カッコ内は監督在任期間。