有栖川宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
有栖川宮(ありすがわのみや)は、かつて存在した宮家の一つ。伏見宮、桂宮、閑院宮とともに四世襲親王家という。宮号の由来は、伏見宮家の祖、栄仁親王が、有栖川とも称したことに因む。
目次 |
[編集] 概要
有栖川宮家は歴代、書道・歌道の師範を勤めて皇室の信任篤く、天皇家・将軍家と婚姻関係を結び、公武ともに密接であった。
寛永2年(1625年)、後陽成天皇の第7皇子・好仁親王が創設。 宮号は、初め高松宮で、親王の祖母・新上東門院の御所高松殿に由来する。
好仁親王は将軍 徳川秀忠の養女・亀姫(実父は秀忠の甥で娘婿にも当たる越前藩主松平忠直)を妃としたが嗣子が無かったため、甥にあたる後水尾天皇の皇子・良仁親王が養嗣子として第2代となり、花町宮を名乗った。 やがて良仁親王が後西天皇として即位することになるが、これは先代後光明天皇の養子・識仁親王(後の霊元天皇)が幼少であったための中継ぎであり、後西天皇は自分の皇子・幸仁親王に高松宮を継がせて、宮号を有栖川宮(幸仁親王の別荘所在地である京都・有栖川に由来)に改めた。 その後、幸仁親王の子・正仁親王が嗣子無く没したため、霊元天皇の皇子・職仁親王が入って第5代を継承し、以後、6代・織仁親王、7代・韶仁親王、8代・幟仁親王、9代・熾仁親王、10代・威仁親王と、いずれも直系を以って伝えたが、1913年(大正2年)1月5日、威仁親王の薨去によって実質的に断絶が確定し、1923年(大正12年)6月29日、威仁親王妃慰子の薨去によって正式に絶家となった。
[編集] 系譜
- 初代・好仁(よしひと)親王
- 2代・良仁(ながひと)親王
- 3代・幸仁(ゆきひと)親王
- 4代・正仁(ただひと)親王
- 5代・職仁(よりひと)親王
- 6代・織仁(おりひと)親王
- 7代・韶仁(つなひと)親王
- 8代・幟仁(たかひと)親王
- 9代・熾仁(たるひと)親王
- 10代・威仁(たけひと)親王
111 107 108 2(後西天皇)3 4 後陽成天皇┬後水尾天皇┬良仁親王─幸仁親王─正仁親王 │1(高松宮) │112 5 6 7 8 9 └好仁親王 └霊元天皇─職仁親王─織仁親王┬韶仁親王─幟仁親王┬熾仁親王 ├喬子女王 │10 │(徳川家慶室) └威仁親王┬栽仁王 └吉子女王 └實枝子女王 (徳川斉昭室・徳川慶喜母) (徳川慶久室・高松宮妃喜久子母)
[編集] エピソード
- 3代・幸仁親王は、延宝8年(1680年)に将軍家綱が死去した際、大老の酒井忠清によって将軍に擁立されたとする宮将軍擁立説がある。
- 6代・織仁親王の娘のうち、楽宮喬子女王は12代将軍 徳川家慶の正室となり、登美宮吉子女王は徳川斉昭の正室となって徳川慶喜を生んだ。
- 8代・幟仁親王(1812年-1886年)は、國學院の前身である皇典講究所や神道教導職の総裁に任ぜられ、明治天皇、和宮親子内親王の学問師範を務めた功績を以って大勲位菊花大綬章を賜った。また、有栖川流書道を大成させ、五箇条の御誓文の正本を揮毫した。
- 9代・熾仁親王(1835年-1895年)は和宮の婚約者だった人として知られ、明治維新前後において軍人として活躍し、政治面でも元老院議官、次いで議長を務めた。熾仁親王は慶応3年(1867年)12月、王政復古により総裁の座に就き、戊辰戦争に際して東征軍大総督を務め、1877年(明治10年)の西南戦争で征討総督となり、1894年(明治27年)の日清戦争では陸海全軍の総参謀長を務めた。
- 10代・威仁親王(1862年-1914年)は元帥・海軍大将となったほか、東宮時代の大正天皇をよく輔導した。 威仁親王の嗣子・栽仁王は父に先じて早世したが、有栖川宮3代の勲功に鑑み、大正天皇は親王の臨終に際し、特旨を以って第3皇子・光宮宣仁親王に高松宮の称号を与え、有栖川宮家の祭祀を継がせた。なお宣仁親王妃となった徳川喜久子は威仁親王の外孫である。
[編集] 有栖川宮詐欺事件
2003年(平成15年)、有栖川宮家の末裔(宣仁親王御落胤)と自称する者による詐欺事件が起き、話題をまいた。有栖川宮詐欺事件を参照のこと。
[編集] 関連項目
- 有栖川宮記念公園(熾仁親王の銅像がある)