曹丕
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曹丕(そう ひ Cao Pi 187年 - 226年 在位220年 - 226年)は中国魏朝の初代皇帝。字は子桓。諡号は文帝。廟号は世祖・太宗。家系は曹氏。父曹操の勢力を受け継ぎ、後漢献帝から禅譲を受けて魏王朝を開いた。著書に『典論』がある。
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[編集] 略要
[編集] 生涯
曹操と卞氏との長子として生まれ、8歳の時に文章を書き始め、騎射や剣術を得意とした。初めは庶子(実質的には三男)の一人として、わずか11歳で父・曹操の軍中に従軍していた。197年に曹操の正室の丁氏が養子として育てて嫡男として扱われていた異母長兄の曹昂(生母は劉氏)が戦死すると、これがきっかけで丁氏が曹操と離別する。これによって、一介の側室でしかなかった生母卞氏は曹操の次の正室に迎えられ、以後、曹丕は曹操の嫡子として扱われようになる(次兄の曹鑠も程なく病死)。やがて、曹丕は文武両道の素質を持った人物に成長する事となった。
217年、父・曹操から太子に正式に指名される。一般にはこの時弟曹植と激しく後継争いをしたと言われるが、実際にそうだったかは怪しまれる。むしろ、兄弟の側近たちによる権力闘争であったという方が、正確であろう。
220年に父・曹操が逝去すると、魏王に即位し丞相職の地位を受け継ぎ、さらに献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即いた。ここで後漢が滅亡し、三国時代に入ることとなる。曹丕は内政の諸制度を整え、父から受け継いだ魏を安定勢力に導いた。特に陳羣の献言による九品官人法の制定は後の世に長く受け継がれた。 一方、外政面では三度に渡り呉に出兵したが、陸遜の善戦であまり芳しい成果は挙げられなかった。ちなみに三国志演義では蜀呉同盟に怒り、呉に対して224年に大軍で呉を水軍で攻めるが呉将徐盛に大敗、赤壁同様の被害を出し、そこで張遼を失ったと記してあるがもちろん創作である。
226年に風邪を拗らせて肺炎に陥り、そのまま逝去した。死ぬ際には、司馬懿、曹真、陳羣、或いは曹休らに皇太子の曹叡を託した。
[編集] 治績
文帝の治世は、主として内政を重視するものであった。黄初3年、郭貴妃を皇后に取り立てる際は、皇帝をさしおいた太后への奏上を禁じ、外戚の政治関与を禁じる勅を発している。そのほか、私刑や仇討を禁じて社会秩序を維持し、大逆罪を除く密告を禁止して密告そのものを罪に問う勅を発布、刑罰の軽減や淫祠の取り締まりを命じるなど、後漢末の弊害や、その後の混乱によって引き起こされた社会問題を収拾しようと、苦心した跡が伺える。
文帝は、曹植をはじめとする皇弟を僻地に遠ざけ、地力を削ぐため転封を繰り返したことで有名であるが、これも外戚と同様、皇族の政権掌握を防ぐことにあったと思われる。しかし、これによって必要以上に藩屏の力が衰え、司馬氏の台頭を防ぐことができなくなってしまった。西晋の武帝はこれに鑑みて皇族を優遇したが、今度は逆に諸王に軍事権まで与えるなど厚遇が過ぎ、八王の乱を引き起こすに至る。
なお文帝は在位僅か7年で死去するが、それが設立したばかりの国の基盤を培うには不十分な期間だった為、結果として魏の寿命を縮めたという指摘もある。
[編集] 後世の評価
漢から簒奪を行った事と、蜀漢正統論の影響からか、曹丕の評判は非常に悪い。甄氏に死を賜った事や、曹植を冷遇した事が過剰に演出されている。それ以外にも、于禁を憤死させた際の顛末や、夏候尚への制裁、功臣であり親戚でもある曹洪を、過去に借銀を頼んで断られた恨みから、曹操死後に彼の役職を取り上げたりするなど、陰険な逸話が数多く残っている。
彼が神経質で冷酷な性格であったことは否めないが、為政者としてみた場合、非凡で有能な明君であったといえる。 文帝の治世において特筆すべき大乱はなく、大きな粛清もない点、総じて社会体制は安定していたと評価できよう。 三国志の編者・陳寿は「好悪の激しすぎる点を改め、広大無辺の度量、仁慈の心を持ち合わせていたのならば、古代の聖王と比較しても何ら劣らない明君となっていただろう」と評しているが、肯われることである。
[編集] 詩風と著作
曹操、曹植と同じように文人としても知られ、その多くの優れた詩は『文選』に収められている。「燕歌行」は現存する最古の七言詩として有名で、漢文のテキストなどにも取り上げられている。その作風は概して繊細優美で、剛直な気風が多い曹植の作品としばしば比較される。冷徹な印象の強い曹丕だが、一方で「胸襟を開いた相手には身分を越えた親愛を示し、時として身分にふさわしくなく、軽佻に見えることもあった」との評があり、たおやかな詩風はその現れとする見方もある。
また中国史上初の文学論評である『典論』を編纂、その中に収められた「論文」は、現存する最古の文芸評論で、「文学は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と述べ文学の効用を宣揚したことで知られる。この考えは、詩人として名高い弟の陳思王曹植が「詩や文で名を残しても何にも成らない。男子たるものは武勲を挙げて善政を支えてこそ本懐である」と語っているのとは、非常に対照的である。
一方で、大変な現実主義・合理主義であったらしく、自らの葬儀に関しては「玉衣や副葬品は不用。墓を飾り、床を敷くのもならぬ。人は死ねば等しく骨となり、もはや骨に痛覚はないのだから」と言い残しており、父・曹操と共通する反儒教的考えを押し出している。もっとも、この考えは老荘思想にも通じるものがあり、文帝の施行した制度などと合わせ鑑みて、このころ既に、六朝で流行する“清談”の基本となる思想が形成されていたのではないか、と指摘する説もある。
[編集] 血縁
[編集] 妃后
[編集] 子
[編集] 男子
[編集] 女子
- 東郷公主(明帝の同母妹)
[編集] 参考文献
- 松枝茂夫 『中国名詩選 上巻』 岩波文庫、345頁。
- 伊藤正文 『中国古典文学大系 第16巻-漢・魏・六朝詩集』 平凡社、492頁。