甄氏
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甄氏(しんし、182年-221年)は中国魏朝の初代皇帝曹丕の妻。諡は昭。上蔡県(河南省南部)の県令、甄逸の娘で、中山郡無極県(河北省張家口付近)の生まれ。甄氏は代々、二千石の高官の家柄であった。三男五女の末女にあたり、兄は豫、厳、堯、姉を姜、脱、道、栄というが、皇后自身の名は記されていない。 幼い頃から聡明で、乱世にあって家族に慎ましやかな生活を説くなど、謹厳な性格の持ち主であった。
初めは、袁紹の次男・袁煕の妻だったが曹操が冀州を攻め落とした時に、曹操の嫡男曹丕は、真っ先に袁紹の屋敷に乗り込んだ。その際に、甄氏を見初めて妻にしたという。 中国歴代美人に数えられることもあり、「肌は玉の如く、美貌は花の如し」と讃えられる。 曹丕に寵愛され、息子の曹叡と娘の東郷公主(早世した)を産んだ。しかし、曹丕からの寵愛は次第に薄れていき、永の娘・郭氏(後の郭皇后)や李貴人、陰貴人に移っていった。これを悲嘆した甄氏は、曹丕に対して恨み言を述べたことで勘気に触れ、黄初2年6月に死を賜った。
魏志文帝紀によれば、甄氏が死を賜った翌日、日食が起こった。諸官は大尉を罷免するよう上奏したが、文帝は「天変地異は国を治める者への譴責である。どうして自分より下位の者へ責任を押しつけられよう」と言い、弾劾をやめさせた。
文帝と甄氏の息子・明帝は、即位後に母の名誉を回復して皇后とし、「その英知によって世を啓蒙した」との意味をこめて「昭」という謚を贈った。また、母后の一族に厚遇を与え、甄家の男子を列侯に取り立てた。彼らの家系は代々続き、後の八王の乱に際しても危難を回避し、血脈を保っている。
後代になると、甄氏の死は郭氏の陰謀であるとする史書も出てくる。稗史の類では「文帝が体調を崩すと、郭氏は「体調が優れておられないのは、甄氏が呪いをかけているからだ」と讒言した。文帝は激怒し、寵愛が薄れた甄氏に対して死を賜った」と伝えるものもある。『漢晋春秋』という書物によれば、死を賜った甄氏の遺体に対して、郭氏は彼女の整えた髪を掻き乱し、その口には糠を詰め込み、棺桶にも入れられずに葬られた、としている。
[編集] 洛神賦の伝説
甄氏に関する有名な伝説は、文帝の弟である曹植との恋愛譚である。この話は史書のどれにも見られない。文帝が甄氏に死を賜ったこと、弟らを冷遇したことをもとに、稗史の類から創作されたものであろう。特に、曹植の代表作「洛神賦」のモデルが甄氏であるという説は、六朝時代から既に原型が見られる。南朝では宮体詩と呼ばれる甘美な恋愛詩が流行したため、このような悲恋伝説が成長しやすかったとおぼしい。こうした伝説のため、後世、物語中の甄氏の名に「洛」「宓」といった洛水に関係のある字が採用されることとなった(”宓”は伏羲氏の女である宓妃のこと。洛水で溺死し、その女神になったといわれる)。