日本交通 (東京)
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種類 | 株式会社 |
本社所在地 | 東京都品川区八潮3-2-34 |
設立 | 1945年12月1日 |
業種 | タクシー・ハイヤー業 |
事業内容 | タクシー・ハイヤーによる一般乗用旅客自動車運送業 自動車整備業等 |
売上高 | 463億3,057万円 (2006年5月期連結) |
関係する人物 | 川鍋一朗(代表取締役社長) |
外部リンク | www.nihon-kotsu.co.jp |
日本交通(にほんこうつう、通称日交(にっこう)、Nihon Kotsu Co.,Ltd.)は、東京都を中心にハイヤー・タクシーと観光バスを運行する事業者であり、グループ売上高では日本最大のハイヤー・タクシー会社である(日経MJ第22回サービス業総合調査ハイヤー・タクシー部門第1位)。「桜にN」のマークが目印。都内にタクシー約1,600台(グループを含めると約2,800台)、ハイヤー約550台を擁する。観光バスは、手塚治虫がデザインしたカンガルーがマスコットであり、「日交カンガルーバス」として運行している。
本社は以前は赤坂の溜池にあったが、経営再建の一環として品川営業所のある東京都品川区八潮に移転した。
なお呼称については、「にっぽんこうつう」「NIPPON KOTSU」あるいは「NIPPON TRAFFIC」と称される(または表記される)時期もあったが、現在は「にほんこうつう」「NIHON KOTSU」とするのが正式である。
目次 |
[編集] 営業
ハイヤー
- ハイヤーは、国内最高級セダン車両を用いた個別輸送機関。タクシーのような流し営業を行わず、注文による定期送迎、来賓・国賓送迎、冠婚葬祭時の利用などが中心である。
- ハイヤー車両は基本的に全車黒色である。クーラーの無い昭和30年代には、天井のみ白くした「日交カラー」のハイヤーが存在したが、クーラーの装備とともに再び黒一色に統一された。
- 特注でボディを15cm延長した「ロングボディ車両」もある。また、一部に1BOXタイプの車両がある。
- 自家用車の運行管理請負(アウトソーシング)も行っている。
タクシー
- タクシー車両は、黄色に赤い帯の「四社カラー」(東京四社営業委員会の統一カラー)と黒一色の「黒タク」が存在する。昭和27年にタクシーのカラー化を業界に先駆けて行い、前年に渡米視察した川鍋秋蔵社長がアメリカのイエローキャブをヒントに考えた、天井がブルー、ボディがグレーという「日交カラー」に統一した。その後、昭和38年からライトスカーレットオレンジとレモンイエローの四社統一カラーに変更、昭和44年から現行四社カラーとなる。黒タクは平成13年から。一部にワゴンタイプのタクシー車両もあるが、カラーは黒である(以前は四社カラー、グレーのワゴン車両も存在した)。
- タクシーには「GPS無線システム」「カーナビ」を導入し、配車効率を向上。「GPSコード」を入力すればカーナビに目的地情報を表示することも可能。
- ドライブレコーダー「ウィットネス」をタクシー全車に装着しており、事故の際の記録のみならず、データの分析により事故の未然防止活動にも役立っている。
- タクシーのビジネスクラスに相当する、ハイグレードタクシー「黒タク」は、通常のタクシー料金でハイグレード車両を使用するのみならず、乗務員も特別な講習を受けた有資格者が乗務する。本社「パトロールカー」が定期的に都内を巡回して、サービス品質の維持に努めている。
- タクシー乗務員は車内禁煙として、快適な車内空間作りを目指す。利用者は喫煙可だが、一部に全面禁煙車が存在する。
- 都内各所に日本交通の専用タクシー乗り場を設置するとともに、営業提携として「日本交通ブランド」のフランチャイズにより都内タクシー台数を確保し、「すぐ乗れる」タクシーを目指す営業展開をしている。
制服
- 2006年10月1日より、乗務員の制服を14年ぶりに一新している。今回のものは、「礼服」をコンセプトとし、ハイヤーや黒タクなどの黒塗り高級車両においても、その場の雰囲気を崩さず高級感が出るようにデザインされた。日本交通としては初めてベストを採用し(旧制服では女性用のみベストがあった)て、季節を問わず統一感が出るように配慮されている。黒を基調としたもので、上着の左腕とベストの左胸にロゴマークが入っているほか、袖口にボタンが無いのがデザイン上の特徴。また、素材には再生ペットボトルを使用し、環境保全も考慮している。なおデザイナーには、長野・シドニーオリンピック日本選手団公式ユニフォームを手掛けた、大矢寛朗氏が起用されている。
- 1992年4月(観光バス部門は6月)に導入した旧制服は、ネイビーブルーを基調としたスーツ(男性用は二つボタン、女性用は三つボタン)に、ネクタイに赤いストライプを用いた、若々しさを狙ったものであった。なお当初の女性用は、バスガイド用制服と同様の4つボタンでウエストの絞りのあるジャケットに、男性ネクタイと同じ柄のリボンという、全く異なるデザインのものであったが、1998年に男性用制服に近いデザインにモデルチェンジしている。これは、当時日本交通が女性乗務員を初めて採用した時期であり、そのためバスガイドの制服をベースに準備したものと思われる。しかしその後女性乗務員数が増えるに伴い、アンケートを実施したうえでモデルチェンジするに至った。
- 日本交通における制服は、川鍋自動車商会時代の昭和11年4月に導入したのが最初であった。揃いの折目正しい制服・制帽の着用によって乗務員の品位を高めようと制服を制定したもので、緑色のサージ、ダブルの金ボタンつき、帽子は黒の海員帽であった。その後昭和12年に東宝自動車に組織改変した際には、上衣を紺、ズボンを霜降りに変更している。昭和20年の日本交通発足の際は、12事業者からなる新会社であったため、すぐには制服の統制が出来ず、衣料事情も好転した昭和26年1月になって制服貸与規定を制定し、まずは乗務員に制帽を着用させた。そして翌年1月から全員に紺ダブル上下の制服を着用させた。なお、夏は白(当初はタクシーのみセピア色)の開襟シャツであった。制帽は濃紺の海員帽で、記章には、「桜にN」に月桂樹を金モールであしらい、夏季は白い日覆いをかけるようにした(昭和29年10月からは清潔感を与えるために四季を通じてつけるようになった)。
観光バス
- 観光バスは、白い車体に、会社のシンボルである桜をモチーフにした桜吹雪を配したデザインで、長年親しまれている「カンガルー」のキャラクターがワンポイント。このデザインは、平成2年に当時多用されていたライン・幾何学模様中心のデザインから脱却して差別化を図ろうと考え、当時の川鍋達朗社長の発想で導入されたもの。
- キャラクターの「カンガルー」は、子供から大人まで誰にでも親しまれるキャラクターとして、昭和43年に初めて車体に配した。ただ当時のカンガルーは洗練さに欠けるものであったため、翌年に手塚治虫に描いてもらったのが、現在のカンガルーである。当初手塚先生が描いた原画はカンガルーの尻尾が上がっていたが、川鍋秋蔵社長が「跳躍姿勢では尻尾は下がるはず」とクレームをつけて修正してもらったというエピソードが残っている。
- 53~60人の大型バスによる運行が中心。定期送迎や乗務員派遣なども行っている。
[編集] 歴史
創業から日本交通の設立まで
- 1928年4月、川崎造船所の運転手だった川鍋秋蔵(埼玉県さいたま市出身)が独立し、ハイヤーの個人営業を開始(トンボ自動車での同居営業)。
- 1929年6月、銀座木挽町において川鍋自動車商会を設立。
- 1931年6月、おりからの不況に対して、大型車6台を売却し小型プリムス10台を購入することで乗り切る。
- 1934年7月、箱根で夏季営業開始(6台)。
- 1936年4月、初めて制服・制帽を制定する。
- 1937年5月、東宝自動車株式会社を設立し、川鍋自動車商会は、同社に一部事業を譲渡。
- 1938年4月、日東自動車株式会社と改称。川鍋自動車商会は、同社に事業譲渡。
- 1938年1月、 東京横浜電鉄(現在の東京急行電鉄)がタクシー会社を統合する目的で東京タクシー株式会社を設立。
- 1940年3月、民衆タクシー株式会社を合併。
- 1940年10月、タクシー営業を開始。
- 1945年1月16日、日東自動車と東京タクシーを中心に11社1個人が経営統合する覚書を調印。
- 1945年7月1日、覚書を交わした12事業者による共同経営を開始。
- 1945年12月1日、日本自動車交通株式会社を設立し、11社は同社に事業を譲渡。
- 1945年12月29日、日本交通株式会社と改称。
日本交通の設立以降
- 1947年11月、本社を西神田へ移転。
- 1949年11月、横田営業所の15台に、車体に桜のマークを付ける(業界初)。その後全車に。
- 1950年12月、本社を赤坂溜池へ移転。
- 1951年1月28日、小田原交通株式会社(本社・小田原市。1946年7月設立の休眠会社)を傘下におさめ、箱根地区に進出。
- 1951年6月15日、日本遊覧自動車株式会社(1948年5月設立。後楽園資本で、東急から観光バス事業を承継。)を傘下におさめる。
- 1951年6月30日、東急系持株(約5割超)の殆どが川鍋側に移行。川鍋家のオーナー企業となり、日交グループを形成。
- 1951年7月23日、五島慶太に顧問委嘱。
- 1951年、業界で初めて屋上灯を採用。
- 1952年4月1日、株式会社埼玉タクシー(本社・埼玉県さいたま市。1950年8月設立)を傘下におさめ、郷里に進出。
- 1953年1月、立川営業所を開設し、多摩地区に進出。
- 1953年4月1日、日本遊覧自動車から観光バス事業を譲受し、兼営開始。
箱根交通・大宮交通(1952年12月、埼玉タクシーを改称)の事業も併せて譲受し、本社直営とする。 - 1960年、無線タクシー運行開始。
- 1964年、LPG車導入。
- 1969年6月、日本交通連合厚生年金基金が発足。
- 1969年12月、富国交通株式会社を買収。第十日本交通株式会社に商号変更。
- 1978年7月、常盤台、千住に新営業所を開設し、営業所を集約。
- 1980年、小型タクシーを導入。
- 1983年5月、TQC導入宣言。
- 1983年9月、川鍋秋蔵逝去(9月30日、享年84)。
- 1983年10月、川鍋達朗が代表取締役社長に就任。
- 1986年8月、小田原地区を小田原日交株式会社(現・日本交通小田原株式会社)に分社。
- 1989年6月、運行管理請負を営業開始。
- 1990年11月、稲城中央交通有限会社を買収。1991年4月に多摩日交有限会社に商号変更。
- 1991年7月、日米美術協会主催の美術展「Srange Adstraction―現代アメリカの先鋭たち」を協賛。
- 1991年8月、「第3回世界陸上競技選手権大会」を協賛。
- 1996年3月、こだま交通株式会社の営業譲受。
- 1996年5月、ハイヤー乗務員に救命技能訓練を実施。
- 1997年7月、立川地区を立川日交株式会社(現・日本交通立川株式会社)に、さいたま地区を埼玉日交株式会社(現・日本交通埼玉株式会社)にそれぞれ事業譲渡。
- 1997年3月、品川区八潮に営業所を集約し、品川営業所を開設。
- 1998年6月、観光バス事業を日本交通観光バス株式会社に事業譲渡。
- 1998年3月、日交埼玉で電子マネー実験(78台)。
- 2000年2月、品川営業所で福祉タクシーを導入(1台)。
- 2000年6月、タクシーにおいて、無線の顧客登録配車システムを導入。
- 2000年7月、株式会社日交マイクルを設立。ミニバンを用いた新型会員制ハイヤー及びリムジンタクシーの「MyCrew」(マイクル)の営業を開始。
- 2001年10月、ハイヤー営業所を集約し、中央営業所を開設。
- 2001年9月、「黒タク」導入。
- 2001年10月、日本交通専用のタクシー乗り場を開設(愛宕グリーンヒルズ)。その後も、六本木ヒルズ、銀座など都内8ヶ所に開設。
日本交通の新しい動き
- 2002年5月、本社を品川区八潮へ移転
- 2003年3月、日本交通多摩有限会社(多摩日交から商号変更)が日本交通立川株式会社に事業譲渡。
- 2003年4月、無線電話に英語専用ダイヤル「Taxi English Phone」開設(本格稼働は7月から)
- 2004年6月、日交マイクルを経営統合。日交マイクルを廃止して一般ハイヤー・タクシー事業に吸収。
- 2004年11月、ハイヤー新橋営業所を銀座営業所へ統廃合。
- 2005年4月、東洋交通、睦交通と業務提携。
- 2005年5月、扇橋交通、三和交通東京営業所(板橋区)と業務提携。
- 2005年7月、藤田無線グループ各社、ワイエム交通と業務提携。
- 2005年8月、川鍋一朗が代表取締役社長に就任、川鍋達朗は会長に就任。
- 2005年8月、川鍋達朗逝去(8月31日、享年67)。
- 2005年9月、日本交通埼玉が移転。
- 2005年9月、三鷹営業所が移転。
- 2005年11月、赤羽営業所を開設。
- 2005年12月、日本交通立川が移転。
- 2006年1月、グランドハイアット東京 (六本木ヒルズ内) の宿泊ゲスト専用のハイヤーとして、ポルシェ・カイエンを導入。
- 2006年2月、藤田無線閉局に伴い、無線受注を引き継ぐ。
- 2006年4月、タクシーにアイドリングストップ機能付車両を導入開始。
- 2006年4月、国際自動車と共同でJR東日本のSuica導入を発表。サービス開始は2007年初頭を予定。
- 2006年5月、常盤台営業所が池袋サンシャインシティへ移転し、池袋営業所に名称変更。
- 2006年5月、千住営業所が移転。
- 2006年6月、日本交通が分社化。同時に第十日本交通は日本交通に事業譲渡。
- 2006年8月、監査室、事業開発部を設置。
- 2006年10月、大矢寛朗氏デザインの新制服を導入。
- 2006年11月、ハイヤーお茶の水営業所を赤坂営業所に統廃合。
[編集] 営業所(車庫)の所在地
ハイヤー営業所
タクシー営業所
整備工場
- 池袋整備場
- 千住工場
- 品川工場
- 三鷹工場
採用研修センター
- 採用研修センター(中央区日本橋小網町)
- 池袋採用センター(豊島区東池袋 /サンシャイン60 5階)
- 大井町採用センター(品川区東大井)
- 三鷹採用センター(三鷹市下連雀)
専用乗り場
- 愛宕グリーンヒルズ
- 銀座営業所
- 品川インターシティ
- 六本木ヒルズ(日の丸自動車との共同運営)
- 泉ガーデン
- 汐留住友ビル
- ロイヤルパーク汐留タワー
- 東京汐留ビルディング
- 日本テレビ
- セルリアン東急ホテル
- 豊洲センタービル
- ロイヤルパークホテル
[編集] 関連会社
- 日本交通小田原(神奈川県小田原市浜町)
- 日本交通立川(立川市富士見町)
- 日本交通埼玉(埼玉県さいたま市北区今羽町)
- 日交サービス(品川区八潮)
- 日交データサービス(新宿区岩戸町)
- 日本交通健康保険組合(中央区日本橋小網町)
- 日本交通連合厚生年金基金(中央区日本橋小網町)
営業提携会社
- 扇橋交通(江戸川区西小岩)
- 三和交通東京営業所(板橋区赤塚新町)
- 東洋交通(北区浮間)
- 春駒交通(北区浮間)
- 日立自動車交通第二(足立区綾瀬)
- 日立自動車交通第三(葛飾区金町)
- 睦交通本社(品川区南大井)
- 睦交通小山営業所(品川区小山)
- ライオン交通(葛飾区青戸)
- ワイエム交通(江東区辰己)
[編集] 備考
設立の経緯について
- いわゆる戦時統合で成立。第二次世界大戦時に政府の交通統制を受けて、昭和19年11月に警視庁から「都内約4500台のハイヤー・タクシーを四社に統合し、1社1000台を確保する」という通達(旅客自動車運送事業統合要綱)が出されたことによる。当時は、業界最有力であった京成電鉄の後藤圀彦社長が大がかりな業者吸収に着手していたが、当時共に単独で企業統合を行いながらも行き詰まっていた川鍋と東急とが手を携える形で、11社1個人による新会社設立を果たす。
- なお、設立12事業者は以下の通り。日東自動車(株)、東京タクシー(株)、高輪自動車(株)、日本相互タクシー(株)、東芝自動車(株)、鐘ヶ淵自動車(株)、帝国自動車(株)、東京安全交通(株)、錦興自動車(株)、鶴野定助<個人>、扇自動車(株)【以上11事業者は昭和20年7月より共同経営開始】、協心相互自動車(株)【昭和20年8月より共同経営に参加】。
- 統合の経緯に関しては、川鍋側と東急側で若干認識が異なっている。現在の日交の社史等では「川鍋秋蔵の尽力により、日東自動車を中心に共同経営にこぎ着けた。」となっているが、実際の日交は川鍋と東急の合作であり、二人三脚の形で経営統合を果たしている。確かに統合のキーマンは川鍋であったが、実際は川鍋が大東急の力を借りて統合したものである。このため代表者として、社長には川鍋秋蔵が就任して実権を掌握するが、会長に当初は品川主計(東京タクシー)、後に立花栄吉(東急副社長)と東急側の人間を据えており、また表向きの主導権は当初東急側が握っていた。これは出資比率も関係していて、共同経営者の出資持分の大半を日交成立時までに東急が肩代わりしたのがその理由である。
昭和22年末頃には、川鍋側と東急側の対立による川鍋排斥運動があったという。当時の重役間の内紛から労組幹部と結びついた東急系の重役が川鍋の排斥運動を激しく展開し、川鍋の脱税行為を国税庁に密告するほどの抗争劇であったという。
しかし川鍋秋蔵は、五島慶太にその手腕を見込まれており、周囲からは小佐野賢治、大川博とともに「五島門下生」と並び称されるほどであったという。川鍋側へ正式に経営が肩代わりされたのは1951年の事であり、当時の東急代表者であった五島慶太が、「実質同社を執り仕切っている川鍋が自らオーナーとなって経営した方が良い」と判断し、川鍋に持株の大半を譲渡した。なおこの一件に関し、当時の日交の業績から周囲より「五島が手放すには惜しい会社」と言われた。現在の日交社史等の記述が川鍋寄りなのはこのためである。
川鍋秋蔵について
- 初代社長である川鍋秋蔵は、明治32年8月28日に埼玉県北足立郡宮原村(後の大宮市、現さいたま市北区)に9人兄姉の一人として生まれた。鉄道省大宮工場に勤めたが、独立を志して20歳で上京し梁瀬自動車商会でタクシー乗務員となり、後に独立を果たす(これに関しては、小田獄夫著『くるま人生―川鍋秋蔵』(1962年)が出版されている)。
- 昭和22年には出身地である大宮市の市議会議員にも当選し、同年には宮原小学校へプールの寄贈を行っている。現在もJR宮原駅前には氏の胸像が建っている。
- 戦時統合による企業統合を進めていた当時、小山亮元代議士の紹介で、当時運輸通信大臣から東京急行電鉄の会長に返り咲いたばかりの五島慶太の知るところとなり、東急系のタクシー会社でやはり企業統合を進めていた東京タクシー(300台)との連携に成功し、日本交通の設立を果たせた。日本交通設立後の戦後事業復興にあたっても、五島慶太による川鍋への後援は非常に大きかった。また、昭和30年に東急グループが自動車産業への進出を決定した際には、日本自動車工業(後の東急くろがね工業)の社長就任を川鍋秋蔵に依頼している。没後は、東急グループ所有の神社である東横神社(横浜市港北区太尾町1014)に合祀された。
ちなみに、川鍋秋蔵が五島慶太に実際に面会したのは、統合直後に小山亮元代議士に連れられて五島邸を訪問したのが初めてであることを、自著『流れる銀星』(1951年、文友社発行)で述べているが、それ以降「信仰的なまでの愛情」(同書)をもって五島慶太を敬愛していたとのことである。 - 川鍋秋蔵は、業界発展にも力を注いだ。三団体に分裂していた東京の業界を一本化した(昭和35年4月、東京乗用旅客自動車協会発足)ほか、二つ存在していた全国組織も統一させ(同年7月、全国乗用旅客自動車連合会発足)、当時、社会問題になっていた「神風タクシー」に対して業界の体質改善運動を行なった。また、昭和45年頃に問題になった、タクシー不足による乗車拒否、乱暴運転の横行に対しても、業界の体質改善に取り組み、同時に「タクシー下駄・靴論議」(選択性の強い個別輸送機関たるタクシーは、市民のゲタではなくクツであり、本来大量輸送機関とは扱いを異にされるべき)を展開し、業界の不祥事続発の根源の一つは本来は多少ぜいたくな乗り物であるタクシーが長年低い料金に抑えられていることによると主張し、マスコミを通じて一般利用者にも理解を求め、東京タクシー近代化センター(現・東京タクシーセンター)設立への流れを作った。
- 日本電信電話公社経営委員会委員も務めた。
- 川鍋秋蔵は日本交通というハイヤー・タクシー業を経営し、その業界発展に尽力するかたわらで、アジア石油において石油の精製・販売業の経営、東急くろがね工業において自動車製造業の経営と、自動車産業の川上統合の可能性も有していたといえるが、これはまさに川鍋秋蔵が実業家・政治家として、自動車産業を通じて日本の産業の復興と発展を志していたことの表れである。交通事業を中心に実業界各方面の発展に尽くした功績から、昭和35年運輸大臣賞、昭和36年藍綬褒章、昭和44年9月に勲二等瑞宝章、昭和55年5月に勲二等旭日重光章を受章している。昭和58年9月30日没。
「大日本帝国」について
- 同時期に成立した大和自動車交通、帝都自動車交通、国際自動車の頭文字をとって「大日本帝国」と呼ばれる事がある。また、これは東京大手四社(日本国内の大手ではない事に注意)の意味も表し、四社共通カラーリング(レモンイエローに赤帯)、球型行灯(ランプ色は日本交通のみ白。他は緑)、四社共通チケットなど「東京四社営業委員会」を通じて営業的にも歩調を合わせている。
東急グループ・同業他社との関係
- 歴史的な経緯から日交グループ形成後も東急グループの一員として列していたが、2000年頃には資本関係を解消し、東急グループからは完全に独立している。
なお、同じ東急をバックボーンとして戦時統合で発足した神奈川都市交通とは、全くの無関係である。同社グループとは、東京城南地区や箱根地区ではむしろ競合関係にある(ただし、神奈川都市交通は東京四社営業委員会とチケットの提携は行っている)。 - また、大阪のハイタク大手の日本交通は同名だが、全く関係がない。(ただし、チケットの提携は行っている。)
この他、札幌、仙台、名古屋等で通称「日交」と呼ばれるタクシー会社とは一切関係はない。
関連事業について
- 以前は30社近くの企業により「日交グループ」を形成し、総合サービス業を目指していたが、事業の再構築で運輸事業のみに専念することとし、2000年頃から数年間にわたり運輸以外の関係会社を全て売却・閉鎖している。また、自社及びグループ会社所有の不動産も、一部を除き全て売却済である。
- 一時期アジア石油(現在のJOMO)の経営に参加していた。またアジア商事(JOMO系列)、安全石油(昭和シェル系列)といったガソリンスタンド会社も経営していた。(その名残で、現在もアジア商事のLPガススタンドで日交のハイヤー・タクシーの燃料給油が行われている。)
- シティホテル「サテライトホテル」を東京・後楽園と横浜山下町にて営業し、プロ野球阪神タイガースの定宿となっていた。現在は廃業。1996年、東京・芝浦に「ニューサテライトホテル」を開業したが、ほどなくJALホテルズに運営委託、「ホテルJALシティ田町」となる。
- 千葉夷隅ゴルフクラブ、那須黒羽ゴルフクラブの各ゴルフ場も運営し、前者は日本経営品質賞委員会が主催する「日本経営品質賞」を受賞するなど、そのサービスには定評があったが、現在はグループから離れている。
- 日本で最初のピザ専門店「ニコラス」を東京赤坂ほかで運営。現在はグループを離れたものの、同地で営業中。
- かつては小田急電鉄と共同で日本農林ヘリコプター(航空会社)を経営していた。
- その他、現在日交グループから離れた関係会社としては、日交ファシリティマネジメント(ビル管理業)、日本交通観光(旅行業)、日本建設コンサルタント(建設コンサルタント業)、日本シューター(エアシューター製造業)、など。現在廃業した関係会社としては、練馬自動車教習所、品川自動車練習所など。
[編集] 外部リンク
- 日本交通
- 日本交通 採用研修センター
- 日本交通小田原
- 日本交通立川
- 日本交通埼玉
- 日交データサービス
- 日交サービス
- トキハイ オフィシャルウェブサイト =日本交通CMソング
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