岡山藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岡山藩(おかやまはん)は備前一国及び備中国の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(岡山県岡山市)。殆どの期間は池田氏が治めた。支藩に鴨方藩と生坂藩がある。
目次 |
[編集] 略史
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに於いて西軍方の主力となった豊臣家五大老の一人で岡山城主であった宇喜多秀家が改易となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し51万石で立藩した。慶長7年(1602年)秀秋は無嗣子で没したため廃絶。
翌、慶長8年(1603年)姫路藩主・池田輝政の二男・忠継が28万石で入封した。慶長18年(1613年)約10万石の加増を受け38万石となる。元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城主・忠雄が31万5千石で入封。寛永9年(1632年)忠雄の没後、嫡子・光仲は幼少のため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、鳥取藩に国替えとなった。
代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5千石で入封。以後、明治まで光政の家系が岡山藩を治めることとなった。
このように池田氏が優遇された背景には徳川家康の娘・督姫が輝政に嫁ぎ忠継・忠雄がその子であったことが大きい。
光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び江戸時代初期の三名君として称されている。陽明学者・熊沢蕃山を登用、寛永18年(1641年)全国に先駆けて藩校「花畠教場」を開校した。また、寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。土木面では津田永忠を登用し干拓などの新田開発・百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。
光政の子で次の藩主・綱政は元禄13年 (1700年)に偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と共に日本三名園とされる大名庭園・後楽園を完成させている。
幕末には9代藩主・茂政は徳川慶喜が実兄であったが佐幕派とはならず隠居した。代わって支藩・鴨方藩主・政詮(岡山藩主となり章政と改める)を明治元年(1868年)に藩主に据え討幕派への旗幟を鮮明にした。
なお、池田家は明治17年(1884年)に侯爵となり華族に列せられた。
[編集] 家老
大藩であったため池田家の家老は軒並み1万石超と大名並みの石高を誇り、領地に陣屋を構えていた。
- 伊木(いぎ)氏(3万3千石、筆頭家老)、虫明(むしあげ)陣屋(瀬戸内市)
- 池田氏(3万2千石、藩主外戚)、天城(あまき)陣屋(倉敷市)
- 池田氏(2万2千石、藩主外戚)、 周匝(すさい)陣屋(赤磐市)
- 日置(へき)氏(1万6千石)、金川(かながわ)陣屋(岡山市)
- 池田氏(1万4千石、藩主外戚)、建部(たけべ)陣屋(御津郡建部町)
- 土倉(とくら)氏(1万1千石)、佐伯(さえき)陣屋(和気郡和気町)
[編集] 歴代藩主
[編集] 小早川(こばやかわ)家
外様 51万石 (1600年 - 1602年)
- 秀秋(ひであき)〔従三位・権中納言、参議〕
[編集] 池田(いけだ)家
外様(準親藩) 28万石→38万石→31万5千石 (1603年 - 1632年)
[編集] 池田(いけだ)家〔宗家〕
外様 31万5千石 (1632年 - 1871年)
- 光政(みつまさ)〔従四位下・左近衛権少将〕
- 綱政(つなまさ)〔従四位下・伊予守、左近衛権少将〕
- 継政(つぐまさ)〔従四位下・大炊頭、左近衛権少将〕
- 宗政(むねまさ)〔従四位下・伊予守、左近衛権少将〕
- 治政(はるまさ)〔従四位下・内蔵頭、左近衛権少将〕
- 斉政(なりまさ)〔従四位下・上総介、左近衛権少将〕
- 斉敏(なりとし)〔従四位下・伊予守、左近衛権少将〕
- 慶政(よしまさ)〔従四位下・内蔵頭、左近衛権少将〕
- 茂政(もちまさ)〔従四位上・弾正大弼、左近衛権少将〕
- 章政(あきまさ)〔従四位下・備前守、左近衛権少将〕
[編集] 支藩
[編集] 鴨方藩
鴨方藩(かもがたはん)は備中国浅口郡・小田郡・窪屋郡を領有し、陣屋を鴨方(現・浅口市)に営んだ。石高は2万5千石。
寛文12年(1672年)光政の二男・政言が立藩。藩主は殆ど岡山城下に居住していた。江戸期を通じての名称は岡山新田(おかやましんでん)藩で、明治元年(1868年)に鴨方藩と改称した。明治4年(1871年)廃藩置県により鴨方県となった。
[編集] 歴代藩主
- 池田(いけだ)家
外様 25,000石
- 政言(まさこと)〔従五位下・信濃守〕
- 政倚(まさより)〔従五位下・内匠頭〕
- 政方(まさみち)〔従五位下・信濃守〕
- 政香(まさか)〔従五位下・内匠頭〕
- 政直(まさなお)〔従五位下・信濃守〕
- 政養(まさよし)〔従五位下・内匠頭〕
- 政共(まさとも)〔従五位下・信濃守〕
- 政善(まさよし)〔従五位下・信濃守〕
- 政詮(まさのり)〔従五位下・信濃守〕→最後の岡山藩主・章政となる
- 政保(まさやす)〔従五位〕
[編集] 生坂藩
生坂藩(いくさかはん)は備中国窪屋郡生坂(現・倉敷市)周辺を領有した。石高は1万5千石であるが、この石高は岡山藩の内高に含まれる。
寛文12年(1672年)光政の三男・輝録が立藩。藩主は岡山城下に居住していた。江戸期を通じての名称は岡山新田(おかやましんでん)藩で、明治3年(1870年)に生坂藩と改称した。明治4年(1871年)廃藩置県により生坂県となった。
[編集] 歴代藩主
- 池田(いけだ)家
外様 15,000石
- 輝録(てるとし)〔従五位下・丹波守〕
- 政晴(まさはる)〔従五位下・丹波守〕
- 政員(まさかず)〔従五位下・中務少輔〕
- 政弼(まさすけ)〔従五位下・丹波守〕
- 政恭(まさゆき)〔従五位下・山城守〕
- 政範(まさのり)〔従五位下・丹波守〕
- 政和(まさやす)〔従五位下・山城守〕
- 政礼(まさかた)〔従五位下・丹波守〕