岡山城
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岡山城天守(南側) | |
通称 |
鳥城、金鳥城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
複合式望楼型4重6階 |
築城主 |
上神高直? |
築城年 |
1346年 - 1369年(正平年間) |
主な改修者 |
宇喜多秀家、池田忠雄 |
主な城主 |
宇喜多氏、池田氏 |
廃城年 |
1873年(明治6年) |
遺構 |
現存櫓、石垣、堀 |
岡山城(おかやまじょう)は日本の城。所在地・岡山県岡山市。別名・烏城、金烏城。国指定史跡。
目次 |
[編集] 概要
城郭の形式は梯郭式平山城。岡山平野のほぼ中心に位置し旭川を天然の堀として利用している。
岡山城の天守は黒漆の板張りで烏城と呼ばれ、隣県の白鷺城と呼ばれる姫路城と対比される。また、この天守は4重6階の複合形式で安土城の天守を模したものともいわれている。
明治時代に御殿・櫓・門の大半を取り壊した。更に第二次大戦中、空襲のため天守・石山門を焼失した。現在は櫓、石垣、内堀が残り、再建した天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が存する。現存する月見櫓・西の丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定されている。 現在は烏城公園として整備されている。周囲には、二の丸跡に山陽放送、林原美術館、岡山市民会館などがあり、三の丸跡に岡山県庁、岡山県立図書館がある。
また、隣接する大名庭園・後楽園は水戸・偕楽園、金沢・兼六園と並び日本三名園として有名である。
近年本丸御殿の再建が検討されたが、2005年度時点で再建の見込は立っていない。
[編集] 沿革
[編集] 南北朝時代 - 安土桃山時代
- 正平年間(1346年 - 1369年)南北朝時代、上神高直が石山台(岡山)に城を築いたと「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられている。その後、戦国時代に金光氏が居城とした。
- 元亀元年(1570年)宇喜多直家が金光宗高を謀殺し天正元年(1573年)入城、城主となる。
- 直家は岡山に城下町を建設。また、岡山城の改築に着手。
- 天正18年 - 慶長2年(1590年 - 1597年)直家の子・秀家は豊臣政権下で57万4千石の大大名となる。これに相応した城とするため8年にわたる大改修が行われ、近代城郭としての体裁を整えた。
[編集] 江戸時代
- 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、代わって小早川秀秋が52万石で岡山藩を立藩。若干の改修と15町余の外堀を掘る。外堀工事に農民だけでなく武士も使役し20日で完成、「廿日堀(はつかぼり)」と呼ばれる。2年後、秀秋は死去し断絶。
- 慶長8年(1603年)池田忠継が28万石で入封。
- 元和元年(1615年)忠継の弟・忠雄が淡路島より31万5千石で入封。城郭の改修に着手。本丸御殿の造営、大手門の改修などを行い、今日見られる城郭が完成する。重文の月見櫓はこの時造営された。
- 寛永9年(1632年)忠雄の子・光仲が鳥取へ転封。代わって鳥取より池田光政が31万5千石で入封。以後、幕末まで光政系池田氏の居城となる。
- 貞享4年(1687年)光政の子・綱政により14年の歳月をかけて後楽園が造営される。
[編集] 明治時代以降
- 明治6年(1873年)廃城令により天守・月見櫓・西の丸西手櫓・石山門を残しその他の建造物が破却される。
- 昭和初期、天守・月見櫓・西の丸西手櫓・石山門が国宝に指定される。
- 昭和20年(1945年)6月29日の岡山大空襲で天守・石山門を焼失。
- 昭和25年(1950年)文化財保護法の制定により焼け残った月見櫓・西の丸西手櫓が重要文化財となる。
- 昭和39年 - 昭和41年(1964年 - 1966年)天守を鉄筋コンクリートにて再建。同時に不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部も再建した。
- 昭和62年(1987年)「岡山城跡」として、史跡(記念物)に指定された。
- 平成8年(1996年)築城400年記念事業として、創建当時の天守には金の鯱が載っており金烏城と呼ばれていたとの伝承から鯱に金箔を施す。
- 平成18年(2006年)日本100名城に選定された。