池田綱政
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池田 綱政(いけだ つなまさ、寛永15年1月5日(1638年2月18日) - 正徳4年10月29日(1714年12月5日))は、岡山藩の第2代藩主。父は江戸時代前期の名君で有名な池田光政(綱政は嫡男)。母は本多忠刻の娘・勝子。正室は丹羽光重の娘。官位は従四位下、伊予守、左近衛権少将。
[編集] 経歴
光政が30歳のとき、江戸藩邸で誕生した。幼名は太郎。初名は興輝。1672年に父・光政の隠居に伴なって家督を継いだが、父が存命中の藩政は隠居した父によって行なわれた。1682年、父の死によって自ら藩政に取りかかる。
光政の治世により、岡山藩は藩政が安定、発展したが、やはり大藩になればなるほど、何事においても支出が大きく、そのために光政の治世末期から綱政が家督を継いだ頃には、岡山藩は財政難に見舞われていた。このため、綱政は津田永忠、服部図書らを登用して財政再建に取りかかった。綱政は、財政再建のためには農村再建による新田開発が必要であると考えていた。実はこの頃、岡山藩は大洪水などの天災が発生して多難を極めていたのである。そのため、児島湾に大掛かりな干拓を行ない、洪水対策として百間川や倉安川の治水工事を行なった。この農業政策は成功し、岡山藩は財政が再建されることとなったのである。
また、綱政は造営事業にも熱心で、1698年には池田氏の菩提寺である曹源寺を創建する。1700年には現在、日本三名園の一つとして有名な後楽園を造営する。その他にも、備前吉備津宮(現在の吉備津彦神社)を造営した。1714年、77歳で死去。後を四男の池田継政が継いだ。法名は曹源寺殿湛然徳峰大居士。墓地は岡山県岡山市円山の曹源寺。
幕府の古文書(各大名家を探索にあたらせた隠密の報告書)を元にして書かれた磯田道史の『殿様の通信簿』によると、その古文書では「生まれつき馬鹿」と評されている。他、「わがまま」「愚か者で分別がない」等、散々な評価で、「特に色を好むことには限度はなく、手当たり次第に女に手を出した結果、70人以上の子供を作った」といわれている。
ただし、「文盲」とも書かれているが、これは儒教的な学問には興味がなかっただけで実際には教養にも優れ、和歌や書に優れていたという。生真面目な性格の父・池田光政は綱政が不真面目に見えてしまうのも当然で、行く末を心配していたと言う。
政治に興味がなく、有能な臣下に政治を丸投げしていたがそれが却って功を奏したようであった。劉禅や今川氏真、朝倉義景などが平和な時代に生まれていたら池田綱政のようになっていたのだろう。
- 池田氏〔宗家〕(岡山藩2代)藩主
- 1672~1714
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- 先代:
- 池田光政
- 次代:
- 池田継政