ライカ
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ライカ(Leica) とは、、ドイツの光学機器メーカーのエルンスト・ライツ光学機器製造会社 (Ernst Leitz Optische Werke) の販売するカメラを「Leitz Camera(ライツ社のカメラ)」と略称したことに由来するブランドである。また、同社の製造した、35mmフィルムを初めて採用した小型カメラのことを指す。同社は変遷を重ね、現在は顕微鏡部門のライカマイクロシステムズ株式会社(Leica Microsystems GmbH)、測量機器部門ライカジオシステムズ株式会社(Leica Geosystems AG)、そしてカメラ部門のライカカメラ株式会社(Leica Camera AG)の3社に分かれている。
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[編集] 概略
ライカは1913年、ライツ社に勤めていた技術者、オスカー・バルナック(Oskar Barnack、1879-1936)によって生み出されたものである。「ウル・ライカ(Ur Leica、0型)」と呼ばれるこのカメラが生まれた背景には「バルナック自身が無類の写真好きであったが、小柄で体力もさほどなかったバルナックにとって、当時主流のガラス乾板を使用する木製大型カメラを持ち歩くことは困難だったため、自分にとって使いやすいカメラを求めて作り上げた」という説、「映画用カメラの開発に従事していたバルナックが、当時感度も低く品質も安定していなかった映画フィルムの適正露出を調べるために、そのフィルムの一部を使い実際に撮影してチェックするために開発した露出テスト用カメラが、スチルカメラとしても流用できることに気づいた」という説など、諸説ある。
その後、バルナックが開発したこのカメラを2代目社長に就任したエルンスト・ライツ2世(Ernst Leitz II)が着目、改良を加えて1925年に市販一号機「ライカI(A)」を生産、販売することになる。また、写真撮影に耐えうる高精度なレンズが必要となり、レンズ開発の技術者マックス・ベレク(Max Berek、1886-1949)によって生み出された「アナスティグマート(Anastigmat、後にエルマックス(Elmax)に名称変更)」をはじめとするさまざまな銘玉を世に出した。
レンズ描写やカメラに搭載されたテクノロジーなど、その性能からカメラ市場を席巻し、当時の日本もカメラメーカーもライカを目標にして、技術開発を行っていた。さらに、1954年に発表されたレンジファインダーカメラの「ライカM3」は当時最高とまで言われるほどの技術を余すところなく投入しており、その性能の高さのあまり、日本のカメラメーカーがそろって、一眼レフカメラへと開発方針を大転換させるきっかけになった。このM3は今でも名機と賛美する人が絶えないが、このことが逆に、現在主流の一眼レフカメラへのライカの参入を遅らせてしまうことにもなった。
現在ではM3の後継となるレンジファインダーカメラ「Mシリーズ」や一眼レフカメラ「Rシリーズ」、コンパクトカメラ、プロジェクター、フィールドスコープなど、さまざまな製品を開発・販売している。そしてそのレンズ描写性能などクオリティの高さから、現在でもプロカメラマンをはじめ、アマチュアでもコレクターや愛好者が多い。またデジタルカメラの分野においても松下電器産業と提携を行っている(後述)ほか、Rシリーズ用のデジタルカメラモジュールの発売やMシリーズのデジタル版「M8」の開発、デジタル一眼レフカメラ共通規格である「フォーサーズ・システム」への賛同などが行われている。
[編集] LEICAの革新・進歩性・新規性
オスカー・バルナックは、13x18cmの乾板写真から出発した。1913年、35mm映画の2駒分を使用する「ライカサイズ(24mmx36mm、135size)」を考案。1924年に0型の試作量産型を開発、社長のエルンスト・ライツ1世(Ernst Leitz I、1843-1929)の姓とCameraの頭をとって「LEICA」と命名された。この超小型カメラは、マックス・ベレクの超高性能の写真レンズによって、その小型フィルムサイズに超高解像力を結像される進歩性・新規性を有し、その後ドイツアニリン工業会(agfa:アグフア)とPeruzの両社の協力が得られ、高解像粒状性を有する35mmサイズのフィルムが工業生産された。1930年、LEICA C型が開発されレンズ交換が可能になり、このC型が1931年に標準化され、全てのカメラのフランジバックが統一され、このフランジバックの精度の高さが、コンタックス等他社の同サイズのカメラを凌駕することになる。
1931年には、エルマー(Elmer)f3.5/50mm・f3.5/35mm・f4.5/135mm・f4/90mmそしてヘクトール(Hektor)f2.5/50mmと、基本的なレンズが揃い、ほぼ現在のシステムの基礎が確立した。写真撮影家はかつての重い撮影機材から開放され、またこれまで撮影不可能であった暗い場所での撮影、広角や望遠での撮影も、小型の交換レンズを総て揃えても2~3kgにおさまる、超小型撮影機材に縮約された。すなわち従来の2桁以上の重量の撮影機材からの開放であった。ただし、フィルムサイズが「ところてん」のような細い映画フィルムに重要な画像情報が凝縮されており、また通常の印画サイズにも、報道写真にも充分な画像形成ができるものの、画質のディテールが損なわれることから、旧来の「フォトグラファー」からは画像原画サイズの超小型からの限界故に、「撮影機材ではなく『スパイカメラ』にすぎない」等と軽蔑された。
その後、距離計連動撮影器機のII型(1932年)の発売、1933年にはドイツアニリン工業会との協働事業の実現により、世界で初の天然色写真「アグフアカラー(AGFACOLOUR)」を発売、フィルム面に微細なかまぼこ型の円柱レンズをならべ、レンズの前面にRGBの特殊フィルターを装着し、これを反転現像し、プロジェクターに前記撮影用フィルターと同様のフィルターを通して投影する方式のリバーサルフィルムによる画期的技術を開発した。1936年にはライカサイズ用コダクローム(Kodachrome)が開発され、イーストマン・コダックの優位がはじまる。この間、ズマール(Summar)f2/50mm(1933)とヘクトール(Hektor)f1.9/73mm(1931)の非常に卓越した交換レンズが発売され、とりわけ報道写真において卓越した画像を多数提供したため、LEICAの名声は不動のものとなった。また、肖像写真撮影にもタンバール(Thambar)f:2.2/90mm(1934~)の極めて優秀な人物撮影用のレンズが供給され、ポートレート・スタジオ写真の分野においてすら、従来の大型のガラス乾板の大型撮影機材を凌駕することになり、現代の写真撮影のライカサイズ全盛の基礎を確立した。
[編集] ライカ製のレンズ名称
ライカ製のレンズには、レンズの系統ごとに名称が決められている。これはレンズの分類わけとしても重要なポイントだといえる。現在発売されているレンズは基本的にレンズの開放F値によって分類される。
[編集] 現在のレンズ名称分類
- ノクティルックス (Noctilux) -F値1.0/1.2
- ズミルックス (Summilux) -F値1.4
- ズマリット(Summarit) -F値1.5
- ズミクロン (Summicron) -F値2.0
- エルマリート (Elmarit) -F値2.8
- エルマー (Elmar) -F値2.8/3.5/4.0
- ズマロン(Summaron) -F値2.8/3.5
- ヘクトール(Hektor) -F値ではなく、レンズ構成に対してつけられる
- テリート (Telyt) -F値ではなく、望遠レンズに対してつけられる
- スーパー・アンギュロン (Super-Angulon) -シュナイダー社から供給を受けた広角レンズ
またレンズの接頭語として、
-
- アポ (Apo-) -アポクロマート補正がなされていることを示す
- テレ (Tele-) -テレフォトタイプの望遠レンズであることを示す
- トリ (Tri-) -3つの焦点距離に対応していることを示す
- バリオ (Vario-) -ズームレンズであることを示す
がある。
[編集] 主なレンズ名称
- エルマー属:エルマー(Elmar)、エルマリート(Elmarit)
- 前身レンズ:エルマックス(Elmax)、アナスティグマート(Anastigmat)
- ズマール属:ズマール(Summar)、ズマレックス(Summarex)、ズマリット(Summarit)、ズマロン(Summaron)
- ズミクロン属:ズミクロン(Summicron)、ズミタール(Summitar)、ズミルクス(Summilux)
- ヘクトール属:ヘクトール(Hektor)
- ノクティルクス属:ノクティルクス(Noctilux)
- タンバール属:タンバール(Thambar)
- テリート属:テリート(Telyt)
- 他社から供給を受けたもの:クセノン(Xenon)、スーパー・アンギュロン(Super Angulon)、ホロゴン(Hologon)
[編集] カメラ ラインナップ
[編集] レンジファインダー機 バルナック型
- ウル・ライカ(Ur Leica、1913年):試作機
- 0(Null Leica、1923年)
- A(I、1925年)
- B(1926年)
- C(1930年)
- スタンダード(1932年)
- II(1932年)
- III(1933年)
- IIIa(1935年)
- IIIb(1938年)
- IIIc(1939年)
- IIc(1948年)
- Ic(1949年)
- IIId(1949年)
- IIIf(1950年)
- IIf(1951年)
- If(1952年)
- IIIg(1957年)
- Ig(1957年)
[編集] レンジファインダー機 Mシリーズ
- M3(1954年)
- MP(1956年)
- M2(1958年)
- M1(1959年)
- MD(1963年)
- M4(1967年)
- MDa(1968年?)
- M5(1971年)
- CL(1973年)
- M4-2(1978年)
- MD-2(1979年?)
- M4P(1981年)
- M6(1984年)
- M6TTL(1998年)
- M7(2002年)
- 新MP(2003年)
- M8(2006年)M型初のデジタル、金属幕・縦走りシャッター機
[編集] 一眼レフ機
- SL
- R3
- R4
- R5
- R6
- R7
- R8
- R9
[編集] フィルムコンパクト機
- C1
- C3
- CM
- minilux
[編集] デジタルカメラ
- digilux(1998年) 富士フイルム FinePix700ベース
- DIGILUX1(2002年) パナソニック DMC-LC5ベース
- D-LUX(2003年) パナソニック DMC-F1ベース
- DIGILUX2(2004年) パナソニック DMC-LC1ベース
- D-LUX2(2005年) パナソニック DMC-LX1ベース
- C-LUX1(2006年) パナソニック DMC-FX01ベース
- V-LUX1(2006年) パナソニック DMC-FZ50ベース
- D-LUX3(2006年) パナソニック DMC-LX2ベース
- DIGILUX3(2006年) パナソニック DMC-L1ベース
[編集] 日本企業との提携
- 1972年、ミノルタカメラ(現・コニカミノルタ)と技術交換や生産協力などで提携を行った。ライツ社が外国企業と提携したのは初めてのことで、この提携ニュースは、日本・アメリカ・ドイツで大きく報道された。この協力関係に基づき、1973年に「ライツミノルタCL」(海外では「ライカCL」)を発売し、一眼レフ(R3以降)の基本骨格を流用していた。現在提携は解消されたが、この技術提携によって双方の技術がその後の両社の技術開発に多大な影響を与えたことは言うまでもない。
- 2000年、松下電器産業とデジタルAV機器用レンズに関する技術協力契約を締結、「 ディコマー(DECOMER)」レンズを搭載したデジタルビデオカメラなど3機種を開発・発売している。さらに2001年にはデジタルカメラ分野においても提携を行い、レンズの光学系はライカと共同開発を行い、ライカのライセンスを受けて生産を行っているほか、松下からのOEM供給によるライカブランドでの販売も行っている。松下がフォーサーズ・システムによるデジタル一眼レフに参入した際にも、同規格に賛同し、レンズのライセンス許諾に寄る供給を行う事になっており、ライカブランドでもDMC-L1のOEMモデル「DIGILUX3」が発売されている。
- なお、ライカ自体は日本に現地法人を持っていなかったため、これまで日本シイベルヘグナーが代理店として輸入販売を行ってきた(戦前から'70年代まではシュミット商会が代理店として有名)。しかしシイベルヘグナーとの代理店契約終了に伴い、日本で初めて現地法人「ライカカメラジャパン株式会社」を2005年3月1日に設立、同社が日本での営業展開を行っている。さらに2006年4月22日にはライカとしては世界初・史上初の直営店を東京・銀座に開店している。日本での開店に踏み切った理由として、世界でもっともライカの愛好者が多い国だというのが挙げられている。
[編集] 文献
- 佐貫亦男(著)、『ドイツカメラのスタイリング』、グリーンアロー出版社、1996年、ISBN 4-7663-3189-3
[編集] 外部リンク
Leica Camera AG -ライカ公式サイト(英文/独文)