小島秀雄
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小島 秀雄(こじま ひでお、1896年(明治29年)4月5日 - 1982年(昭和57年)3月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。兵庫県神戸市出身。
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[編集] 略歴
旧制神戸第1中学校より海軍兵学校第44期入校。入校時成績順位は100名中第5位、卒業時成績順位は95名中第7位。
自他共に認める日本海軍きっての親ドイツ派の軍人である。
[編集] 人物像
ドイツ駐在は3回に及ぶ。但し第3回目の駐在時の大島 浩大使とは犬猿の仲だった由。
晩年は日独協会会長の職に在ったが親ドイツ感情は言うに及ばず、親ナチス、親ヒトラー感情を全く隠そうともしなかった為に在京ドイツ系ユダヤ人グループから完全に忌避されていた。
[編集] 年譜
- 1896年(明治29年)4月5日- 兵庫県神戸市生
- 1913年(大正2年)9月3日- 海軍兵学校入校 入校時成績順位100名中第5位
- 1916年(大正5年)11月22日- 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位95名中第7位・任 少尉候補生・装甲巡洋艦「八雲」乗組・練習艦隊近海航海出発 有明湾~鹿児島~佐世保~青島~威海衛~大連~鎮海~舞鶴~安下庄~大阪~鳥羽~清水方面巡航
- 1917年(大正6年)3月3日- 帰着
- 1918年(大正7年)8月20日- 装甲巡洋艦「磐手」乗組
- 1919年(大正8年)1月18日- 2等巡洋艦「対馬」乗組
- 1920年(大正9年)5月31日- 海軍水雷学校普通科学生
- 12月1日- 軽巡洋艦「北上」艤装員兼分隊長
- 1921年(大正10年)3月19日- 海軍大学校選考科学生 東京外国語学校海軍委託学生・ドイツ語科
- 1922年(大正11年)12月1日- 任 海軍大尉
- 1923年(大正12年)2月1日- 在ドイツ日本大使館附海軍駐在武官府補佐官
- 1925年(大正14年)3月2日- 帰着
- 1926年(大正15年)12月1日- 連合艦隊参謀兼第1艦隊参謀兼副官
- 1927年(昭和2年)12月1日- 軍事参議官副官兼海軍軍令部出仕
- 1928年(昭和3年)12月10日- 任 海軍少佐・海軍大学校甲種第28期学生
- 1930年(昭和5年)11月28日- 海軍大学校甲種卒業 卒業時成績順位20名中第3位
- 1932年(昭和7年)3月10日- 海軍兵学校教官兼監事
- 1933年(昭和8年)11月15日- 任 海軍中佐・海軍省兼軍令部出仕
- 1934年(昭和9年)4月1日- 海軍省副官兼軍令部出仕
- 1936年(昭和11年)2月1日- 在ドイツ日本大使館附海軍駐在武官兼艦政本部造船造兵監督官兼航空本部造兵監督官
- 1937年(昭和12年)12月1日- 任 海軍大佐
- 1939年(昭和14年)5月25日- 軍令部第3部第7課長兼大本営海軍参謀
- 1941年(昭和16年)10月1日- 横須賀鎮守府附
- 10月15日- 軽巡洋艦「香椎」艦長
- 1942年(昭和17年)6月25日- 横須賀鎮守府附
- 1943年(昭和18年)5月1日- 任 海軍少将
- 1944年(昭和19年)3月16日- 免 第6艦隊司令部訪独潜水艦担当
- 1945年(昭和20年)12月6日- 予備役編入兼第2復員省充員召集
- 1946年(昭和21年)3月25日- 充員召集解除
- 1982年(昭和57年)3月22日- 死去
[編集] 主要著述物
- 前ドイツ海軍長官の悲しい手紙(機関誌水交) 昭和30年・第23号
- ドイツ国立博物館へ日本海海戦の画を贈って(機関誌水交) 昭和32年・第53号
- (対訳)ドイツ人教師の眼に映った戦後の日本の青少年の姿(機関誌水交) 昭和34年・第69号
- ヒットラーと私(1~2)(機関誌水交)昭和34年・第75~76号
- 第二次世界大戦中インド洋及び西大西洋方面に作戦行動していたドイツ潜水艦の運命(機関誌水交) 昭和46年・第212号
- 藤村義朗中佐の和平工作電は何故無視されたのか(機関誌水交) 昭和51年・第272号
- ドイツに渡された日本の航空魚雷(機関誌水交) 昭和51年・第273号
[編集] 参考文献
- 潜水艦隊(井浦祥二郎著・学研M文庫) ISBN 4-901061-8 C0121
- 伊号潜水艦訪欧記(伊呂波会編・光人社NF文庫) ISBN 4-7698-2484-X C0195
- 深海の使者 (吉村 昭著・新潮文庫) ISBN 4-10-11111707-1 C0193
- 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代史料研究会編・東京大学出版会)
- 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)
- 海軍兵学校出身者名簿(小野寺 誠編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)