家永教科書裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
家永教科書裁判(いえながきょうかしょさいばん)は、高等学校日本史教科書『新日本史』(三省堂)の執筆者である家永三郎が教科用図書検定(教科書検定)に関して国を相手に起こした一連の裁判。1965年提訴の第一次訴訟、1967年提訴の第二次訴訟、1984年提訴の第三次訴訟がある。1997年、第三次訴訟の最高裁判所判決をもって終結。一次訴訟から最高裁判決まで32年もかかったため、「最も長い民事訴訟」としてギネスブックに認定された。
目次 |
[編集] 訴訟内容
訴訟における最大の争点が「教科書検定は憲法違反である」とする旨の家永側の主張であったが、最高裁は「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」とし、教科書検定制度は合憲とした上で、原告の主張の大半を退け、家永側の実質的敗訴が確定した。学説の大多数もこの判決を支持している。
[編集] 第一次訴訟
家永らが執筆した『新日本史』が1962年の教科書検定で戦争を暗く表現しすぎている等の理由により不合格とされ(修正を加えた後、1963年の検定では条件付合格となった)、1962年度・1963年度の検定における文部大臣の措置により精神的損害を被ったとして提起した国家賠償請求訴訟。
- 第一審(1965年6月12日提訴、1974年7月16日判決、東京地裁):判決(高津判決)は、国家の教育権論を展開して憲法26条違反の主張を否定、また教科書検定は表現の自由に対する公共の福祉による制限であり受忍すべきものとして憲法21条が禁じる検閲に当たらないとした。一方で検定意見の一部に裁量権濫用があるとして国側に10万円の賠償命令し、家永の請求を一部認容した。
- 第二審(1974年7月26日原告控訴、1986年3月19日判決、東京高裁):判決(鈴木判決)は、国の主張を全面的に採用し、また裁量権濫用もないとして請求を全部棄却。家永の全面敗訴となった。
- 上告審(1986年3月20日原告控訴、1993年3月16日判決、最高裁):判決(可部判決)は、第二審判決をほぼ踏襲し、上告を棄却。家永の全面敗訴となった。
[編集] 第二次訴訟
1966年の検定における『新日本史』の不合格処分取消を求める行政訴訟。
- 第一審(1967年6月23日提訴、1970年7月17日判決、東京地裁):判決(杉本判決)は、国民の教育権論を展開して、教科書の記述内容の当否に及ぶ検定は教育基本法10条に違反するとした。また、教科書検定は憲法21条2項が禁止する検閲に当たるとし、処分取消請求を認容した。家永の全面勝訴となった。
- 第二審(1970年7月24日被告控訴、1975年12月20日判決、東京高裁):判決(畔上判決)は、検定判断が行政としての一貫性を欠くという理由で、国の控訴を棄却。家永の勝訴となった。
- 上告審(1975年12月30日被告上告、1982年4月8日判決、最高裁):判決は、処分当時の学習指導要領がすでに改訂されているから、原告に処分取消を請求する訴えの利益があるか否かが問題になるとして、破棄差戻し判決を下した。
- 差戻審(1989年6月27日判決、東京高裁):判決は、学習指導要領の改訂により、原告は処分取消を請求する利益を失ったとして、第一審判決を破棄、訴えを却下した。
[編集] 第三次訴訟
1982年の検定を不服として家永が起こした国家賠償請求訴訟。
- 第一審(1984年1月19日提訴、1989年10月3日判決、東京地裁):判決(加藤判決)は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊の記述に関する検定を違法とし、国側に10万円の賠償を命令した。
- 第二審(1989年10月13日原告控訴、1993年10月20日判決、東京高裁):判決(川上判決)は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊に加え南京大虐殺、「軍の婦女暴行」の記述に関する検定も違法とし、国側に30万円の賠償を命令した。
- 上告審(1993年10月25日原告控訴、1997年8月29日判決、最高裁):判決(大野判決)は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊他に加え731部隊、「南京戦における婦女暴行」の記述に関する検定も違法とし、国側に40万円の賠償を命令した。