天正壬午の乱
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天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、天正10年(1582年)から甲斐・信濃・上野で繰り広げられた徳川家康と北条氏直の戦いである。
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[編集] 背景
天正10年3月に武田征伐を開始した織田信長は甲斐の武田氏を滅亡させ、甲斐から信濃、駿河、上野に及んだその領地は織田政権下に組み込まれた。信長は国掟を定め、武田遺領を家臣に分与する。甲斐一国は、武田親族衆の穴山梅雪に与えられた南西部の八代、巨摩2郡を除いて河尻秀隆に、信濃は森長可らに、上野は滝川一益に与えられ、統治を任せて帰国した。なおこの時滝川一益は関東管領に任ぜられていたともいわれている。駿河は同盟関係の徳川家康が領する一方、武田征伐に協調した隣国の相模の後北条氏は遺領を得られなかった。
同年6月、信長が京都の本能寺で家臣の明智光秀によって討たれ(本能寺の変)、当時穴山梅雪を伴い領国加増の御礼で安土城を訪問した後堺にいた徳川家康は伊賀越えにより難を逃れているが、遅れて出発した梅雪は木津川畔草内で落命した。変後の混乱で、新領主への再就職の禁止や検地など新しい統治体制に不満を抱いていた甲斐国人の一揆が頻発。河尻秀隆はあっけなく戦死し、森長可も美濃に撤退するという事態に陥る。また、後北条氏は変に即応して上野や甲斐南東の郡内への侵攻し、上野では武蔵との国境神流川で滝川一益の軍を撃破(神流川の戦い)。一益は上野を放棄して伊勢に退いた。一方、信濃が空白になると隣接する越後の上杉氏は攻勢に転じ、川中島方面へ侵攻する。
[編集] 経過
信長の死が諸国へ伝わると、事実上空白地帯となったこの旧武田領を巡って、徳川・北条・上杉が対立を深めていく。甲斐では、岡崎へ逃れた徳川家康が、光秀討伐の軍を起こすと同時に秀隆を支援するという名目で家臣を甲斐に派遣し、梅雪遺領の掌握を図る。信州佐久には旧臣の依田信蕃を向かわせた。信蕃は檄を飛ばして武田遺臣900人弱をかき集め、小諸城に入った。家康は光秀討伐の兵を熱田(鳴海とも)まで進めていたが、光秀が中国地方から反転した羽柴秀吉により討たれたという報を聞くと間髪入れず浜松へ戻り、酒井忠次・奥平信昌に信州路を進ませる一方で自身は7月には甲斐へ入った。後北条に制圧された郡内を除いて国中から南信濃を確保し、新府城に入る。
信濃では、一益を撃破した北条氏直率いる主力がそのまま碓氷峠を越え、6月26日には佐久郡の諸豪を臣従させた。7月9日には真田昌幸が誼を通じてきて、これにより上野方面がとりあえず安全になったので、北条勢主力は信濃・甲斐の掌握に傾注することとなった。また、木曽義昌や諏訪頼忠に所領安堵状を与え、信濃も半ば手中するかに見えた。しかし、そこに立ち塞がったのが上杉景勝であった。長可を追った後も引き続き信濃に進駐していた景勝は、御館の乱の影響もあってかかねてから北条に対して警戒心を露にし、合戦準備を進めていた。北条・上杉両軍は川中島で対峙したが、北条は景勝と家康の挟み撃ちになることを恐れ、北信濃4郡を景勝に渡す条件で講和し、氏直は小諸城に引き上げた。
景勝との講和がなった時点で、北条が相対する相手は家康のみとなった。北条は佐久経由で北条氏規13,000を甲斐に送り込み、若神子に着陣し、新府城の家康勢と対峙した。また北条氏尭・北条氏勝らを御坂峠に張り付かせ、北条氏邦にも秩父から甲斐を窺う体勢をとらせた。北条勢の甲斐侵入と同時に、信蕃は北条の小荷駄隊を狙ったゲリラ戦を開始した。
8月に入ると北条の動きがあわただしくなった。氏尭・氏勝勢が家康の背後を襲うべく甲斐東部の郡内地方へ進撃した。これに対し、鳥居元忠らが黒駒付近で果敢に応戦し、北条勢約300を討ち取って撃退した(黒駒合戦)。この合戦以降、戦局は北条に著しく不利になっていった。8月22日には義昌が家康側に寝返った。9月には、北条・上杉の講和の結果北条傘下を離れた昌幸が信蕃に加勢するようになり、家康は信蕃と昌幸に曽根昌世らをつけて戦力を強化した。10月には昌幸が禰津某を討ち取り、信蕃は小諸城を襲って大道寺政繁を駆逐した。また、南信濃では義昌に続いて家康の支援を受けた小笠原貞慶が深志(現在の松本市)に入り他の領主らも徳川氏についた。信蕃・昌幸のゲリラ戦も激しさを増し、北条の補給線は事実上途切れてしまった。北条勢は上野や佐久郡にわずかばかりの軍勢を差し向けるも、戦局は好転しなかった。さらに、これらに呼応して関東平野では佐竹義重が活動を活発化させていた。ここに至り北条は家康との講和を決意。10月29日に講和が結ばれた。講和の条件は以下のとおりであった。
- 氏直に家康の娘督姫を娶らせる
- 甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ「切り取り次第」(自力で勢力を伸ばすという意味)とし、相互に干渉しない
こうして大局的には合戦は終わった。しかし、その後北部では家康に従う依田信蕃が戦死し、武田旧臣で、一時は織田政権に臣従した真田昌幸が新たに築城した上田城に拠り、上杉氏の援助を得て徳川氏の支配を拒んだ。これは、先に徳川・北条間で結ばれた和議の条件に、信濃は徳川が、上野は北条がそれぞれ支配するという内容が盛り込まれていたことによるが、信濃の他に上野の沼田にも領地を持つ昌幸が、自領が失われることを恐れたためといわれている。家康はこれに対して天正13年(1585年)に軍を送り上田城を攻撃させたが、真田勢の反撃によって失敗に終わっている(上田合戦)。
最終的に事態は、天正17年(1589年)に豊臣秀吉によって決着が図られ、沼田周辺の真田領の多くが北条氏に引き渡された。しかし残された真田領を北条氏の軍が略取したために、小田原の役へと発展していくことになる。
また、この時徳川側の講和の使者だった井伊直政が、この一連の戦いで得た武田遺臣などをつけられ、以後「井伊軍団」を組織し「井伊の赤備え」として勇名を馳せる事となる。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 市川武治「依田信蕃 甲信侵攻の立役者」『歴史群像シリーズ 徳川家康』学習研究社、1989年
- 斎藤慎一『戦国時代の終焉』中央公論新社 中公新書1809、2005年、ISBN 4-12-101809-5