北村徳太郎
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北村 徳太郎(きたむら とくたろう、1886年5月9日 - 1968年11月15日)は日本の政治家。
佐世保商業銀行頭取、親和銀行頭取などを経て、戦後の1946年旧長崎2区より修正資本主義を掲げて進歩党より衆院に初当選。以後1960年まで7回連続当選する。財政・経済通として片山哲内閣運輸大臣、芦田均内閣大蔵大臣を務めた。
1949年の衆院選後、吉田茂の民主自由党との連携を図る犬養健総裁ら「連立派」と袂を分かち、「野党派」として芦田均、苫米地義三、中曽根康弘、園田直、稲葉修、川崎秀二らと行を共にする。以後国民民主党、改進党の結成に参加。
1948年以降、日ソ東欧貿易協会会長を長く務め、また日中国交回復にも尽力するなど、対共産圏との関係改善・交流促進に努めた。またトルストイやアルベルト・シュバイツァーを敬愛する熱心なクリスチャンとしても知られ、東京神学大学、明治学院大学などの理事長を務めた。また世界連邦運動にも取り組んだ。
1955年の保守合同で自由民主党に所属し、河野一郎派に客分として参加。1960年の総選挙で落選を喫し、政界を引退した。
戦後日本の保守政界において、一時期極めて強い異彩を放ちながら後進に少なからぬ有形無形の影響を与えて表舞台から姿を消していった理想主義的政治家であったが、同時代の政治家である石橋湛山や松村謙三、三木武夫らと比べ、北村について語られることは少ないといえる。
[編集] 略歴
- 1886年5月9日 京都市上京区にて出生。生家は浄土真宗を信仰していた。
- 1907年 大阪の北浜銀行入社。傍ら関西大学に通う。頭取岩下清周の薫陶を受け、貸付課長まで昇進した。
- 1909年 関西大学専門部卒業。また同年にキリスト教に入信する。
- 1915年 北浜銀行破綻後、鈴木商店系の播磨造船所(現・石川島播磨重工業)に入社、のち支配人に昇進する。支配人時代、快適な社宅の建設や、従業員の子女のために幼稚園を設置したり、音楽会を催すなど、福利厚生の向上に努めた。
- 1919年 同じ鈴木商店系の神戸製鋼所の主事となる。
- 1921年 同社佐世保出張所長。
- 1923年 佐世保商業銀行常務取締役に転進。
- 1931年 佐世保商業銀行頭取。
- 1937年 佐世保商業会議所会頭。
- 1939年 親和銀行設立に参画。副頭取に就任。
- 1943年 親和銀行頭取。
- 1946年 衆議院議員に初当選。
- 1947年 片山哲内閣運輸大臣。
- 1948年 芦田均内閣大蔵大臣。
- 1949年 民主党が「連立派」と「野党派」に分裂。
- 1950年 民主党野党派と国民協同党の合併により国民民主党結成。政調会長に就任。
- 1952年 旧立憲民政党系の大麻唯男、堤康次郎、松村謙三らの「新政クラブ」と合同し、改進党結成。
- 1960年 総選挙に落選。
- 1962年 「シュバイツァー日本友の会」会長。
- 1964年 訪中、周恩来と会談。
- 1966年 第1回日ソ経済合同委員会議長を務める。また佐世保市名誉市民章を受章(生前受章の邦人名誉市民としては同時受章の山口喜久一郎と並び初めて)。
- 1968年11月15日 逝去。享年82。
[編集] 同姓同名候補による選挙
1958年の衆院議員選挙長崎2区には、北村徳太郎(自民前、元大蔵相、71、佐世保市在住)と同姓同名の北村徳太郎(無所属新、会社役員、45、松浦市在住)が立候補。日本初の同姓同名候補による選挙戦となった。長崎県選挙管理委員会は、按分票による開票の混乱を避けるため、有権者に対し、両者の区別がつくような文言(「前大臣の」「佐世保の」「無所属の」「40代の」など)を投票用紙に記入するよう呼びかけた。当初、開票作業の混乱が予想されたが、得票数は前職・北村氏が5万6千票強の貫録勝ち。新人の北村氏は4百票に満たない泡沫候補であった。
[編集] 参考文献
- 鈴木伝助『一書の人北村徳太郎』教文館 1970年