進歩党 (日本)
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[編集] 進歩党 (日本 1896 ‐ 1898)
(明治29年(1896年) ‐ 明治31年(1898年))明治時代における政党。
明治29年(1896年)、立憲改進党・立憲革新党・大手倶楽部などが合同して結成。初代総裁(党首)は大隈重信。
明治31年(1898年)、憲政党結成に伴い解散。
[編集] 概要
[編集] 日本進歩党 (日本 1945‐1947)
(昭和20年(1945年) ‐ 昭和22年(1947年))旧大日本政治会を母体として結成。その多くが旧立憲民政党から大政翼賛会に移った議員であり、民政党最後の総裁であった町田忠治が初代総裁となる。だが、翌年の公職追放令によって町田以下議員のほとんどが公職追放されたために、民政党の前身であった旧憲政党内閣で外務大臣を務めた事もある幣原喜重郎前首相を総裁に擁立する。1947年、吉田茂総裁に不満を抱く日本自由党内の反主流派と合同して民主党として再出発を図る事となった。
[編集] 党勢の推移
[編集] 衆議院
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | 273/- | 466 | 公職追放-259 |
第22回総選挙 | ○94/376 | 468 | 追加公認+16 |
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
[編集] 進歩党 (日本 1987 ‐ 1993)
(昭和62年(1987年)1月22日 ‐ 平成5年(1993年)8月2日)昭和・平成期における日本の保守政党。昭和62年(1987年)、新自由クラブ解散後、自由民主党に復党しなかった衆議院議員田川誠一が結成。平成5年(1993年)、田川の政界引退に伴い解散。
[編集] 党史
- 昭和62年(1987年)
- 平成元年(1989年)
- 平成2年(1990年)
- 平成4年(1992年)
- 依田らが離党、進歩自由連合を結成し、参院選に出馬。全員落選に終わる。
- 平成5年(1993年)
- 8月2日 進歩党解散。6年間の党史の中で当選した国会議員は田川だけに終わった。
[編集] 地方組織
- 北海道、岩手県、宮城県、栃木県、群馬県、東京都、千葉県、神奈川県、静岡県、愛知県、長野県、滋賀県、京都府、奈良県、大阪府、山口県、福岡県、佐賀県、長崎県、鹿児島県などで都道府県連組織や支部組織が結成されていた。しかし国会議員を当選させたのは神奈川県だけで、地方議員候補すら擁立できない組織が多かった。
[編集] 参院選比例区金銭疑惑
- 平成元年の参院選比例区の名簿順位をめぐって、順位は候補陣営からの献金額で決まったのではないかという疑念が選挙後、党内に発生。1位指名を受けた候補自身がそのことを党の会議で明らかにするに及んで党内は混乱し、真相究明を求める党員が独自組織「進歩党をまじめに考える会」を結成したり、田川らを東京地検特捜部に告発し、田川も告発した党員を誣告罪で逆告訴するという泥沼状態に陥った。このことで党勢拡大はストップし、党東京都連代表依田米秋ら離党者も相次いだ。そして田川の政界引退とともに党は解散するに至った。
- 東京地検特捜部を舞台にした告訴合戦は双方とも不起訴に終わり、横浜地方裁判所で続いていた地方党員と進歩党所属鎌倉市議会議員助川邦男の民事訴訟は地方党員の実質勝訴だった。
- 助川はその後、鎌倉市議会議長となるが、市の公務を無視して海外旅行に行っていたことが発覚し、辞任に追い込まれた。
[編集] 党勢の推移
[編集] 衆議院
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | 1/- | 512 | |
第39回総選挙 | ○1/7 | 512 |
[編集] 参議院
選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
(結党時) | 0/- | - | 252 | |
第15回通常選挙 | 0/10 | 0 | 252 | |
第16回通常選挙 | 0/1 | 0 | 252 |
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
[編集] 関連サイト
[編集] 関連項目
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