侯景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
侯 景(こう けい, 503年 - 552年)とは、中国南北朝末期の武将である。字は万景。
朔方(陝西省)の出身とも、鴈門(山西省)の出身ともいう。生家は、六鎮の一つである懐朔鎮(内蒙古)の守りに従事していた。彼の生家は胡族化した漢族とも、或いは漢化した鮮卑系の貴族の家柄であるとも言われる。北魏の爾朱栄の軍中で頭角を現し、北魏が東西に分裂すると、東魏の高歓の旗下に入り、河南大行台となる。高歓の没後に東魏に叛き、所領の州郡ともども、梁の武帝に帰属した。
その後、東魏の武将である慕容紹宗に敗れ、寿春(安徽省)に退いた。梁と東魏の間に和議が成立しようという形勢になると、今度は梁に叛き、梁の宗室の一員である蕭正徳を抱き込んで、10万の兵を集め、都の建康に迫った。548年(太清2年)のことである。
翌年、梁の援軍が到着すると一時的に見せかけの講和を成立させるが、3月には、侯景の手で梁の都・建康は陥落し、武帝は台城に幽閉された。5月に、武帝は失意のうちに憤死してしまう。当時の梁は、分裂した東魏・西魏の勢力を遥かに凌駕する国力を持っていた。それが、東魏から投降してきた一将の軍によって都を落とされてしまったのには、梁の国内各地に分封された宗室の諸王が、互いの利を見て牽制しあい、武帝の救出に向かおうとする者がなかったという、武帝にとっては悲惨な事情があったことによる。
武帝の没後、侯景は簡文帝を立て、相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事を自称した。しかし、簡文帝が己が意のままにならないと見ると、簡文帝を弑殺し、蕭正徳をも除いた。そして予章王蕭棟を立てた。この時、侯景は漢王を称している。その後、551年10月、予章王を禅譲の名目のもとに廃して、自らが帝位につき、梁を簒奪して国号を漢とし、年号を太始と改めた。しかし、間もなく552年(承聖元年)3月には、江陵(湖北省)で梁帝に即位していた元帝が派遣した、王僧弁及び陳覇先の義兵によって都を追われ、その途上で殺された。
[編集] 伝記資料
[編集] 参考文献
- 「侯景の乱始末記」吉川忠夫著 (『中公新書』)
[編集] 関連項目
- 侯景の乱
カテゴリ: 魏晋南北朝時代の人物 | 中国史の人物 | 503年生 | 552年没