鮮卑
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鮮卑(せんぴ、紀元前1世紀? - 6世紀)は中国北部に存在していた民族。魏晋南北朝時代には南下して中国に北魏などの国を建てた。
鮮卑は東胡から出た民族で、言語学的にはモンゴル語系統という定説が根強いが、同時にテュルク系とツングース系との混血とする説もかなり有力である。紀元前には大興安嶺山脈の麓で牧畜、狩猟を生業としており、匈奴に服属していた。その後、匈奴が北と南に分裂すると前漢にも繋がる部族が出始め、半独立状態になった。
1世紀になり北匈奴が後漢との抗争を続ける間に力を蓄え、北匈奴をモンゴル高原から西に追いやった。2世紀半ばに檀石槐が登場すると族の統合に成功し、強大となった。しかし檀石槐の死後は再び分裂した。
後漢が滅び、西晋の皇族の中で八王の乱が起きると鮮卑族は傭兵として雇われ、徐々に中国内部に移住するようになった。
五胡十六国時代に入り、匈奴の劉淵が西晋から独立して前趙を建てると、鮮卑族もこれに倣い、中国に国を建てた。
この頃の鮮卑は六つの部がそれぞれ有力となっていた。(括弧の中はそれぞれが建てた国)
この他、慕容部から分かれて西遷した吐谷渾も鮮卑系だが、現地の羌人と融合しているとされる。
拓跋部の北魏は439年に華北を統一し、これ以降は南北朝時代となる。その後隋の楊堅により中国が統一されるが、楊堅は宇文部が立てた北周の外戚であり、自身も鮮卑の出身である可能性がある。同じく北周の貴族であった唐の李淵もまた鮮卑出身である可能性が考えられる。また、北斉の高歓も漢化した鮮卑系の可能性が高いと思われる(鮮卑化した漢人という説もある)。なお、北周の宇文部は鮮卑化した匈奴の一派と考えられ、テュルクの影響が濃く見られるという。
隋統一後の鮮卑族は漢民族に同化して行き、民族としてのまとまった動きは見せなくなった。また、金の代表格の詩人で官僚でもあった元好問は北魏の帝族の末裔だといわれる。