仙石貢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仙石 貢(せんごく みつぎ、安政4年6月2日(1857年7月22日)-昭和6年(1931年)10月30日)は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。高知県高知市出身。工学博士。没後勲一等旭日大綬章追贈(昭和6年10月30日付)。名はみつぐと読むこともある。
「雷大臣」などといわれ、一生奇行で通した人物であるが、鉄道技術者、経営者として果たした功績は大きい。
[編集] 略歴
- 明治5年(1872年) 高知藩病院附属吸江学校に入学し、英語を学ぶ。
- 明治11年(1878年)7月 東京帝国大学理学部土木工学科卒業。同9月東京府土木掛。
- 明治14年(1881年) 東北鉄道株式会社の設立に参画。
- 明治17年(1884年) 工部省鉄道局勤務、日本鉄道、甲武鉄道工事を担当。
- 明治24年(1891年) 工学博士学位。
- 明治29年(1896年)10月 逓信省鉄道技監を最後に退官。筑豊鉄道社長。
- 明治31年(1898年)4月 九州鉄道社長。
- 明治39年(1906年)4月 南満州鉄道設立委員。
- 明治41年(1908年)7月 政党・戊申倶楽部設立に参加。
- 明治44年(1911年)10月 猪苗代水力電気会社社長。
- 大正3年(1914年)4月 鉄道院総裁。
- 大正4年(1915年)3月 高知県選出の衆議院議員。
- 大正9年(1920年) 土木学会第7代会長。
- 大正13年(1924年)6月11日 加藤高明内閣で鉄道大臣。
- 大正15年(1926年)1月30日 第1次若槻禮次郎内閣で鉄道大臣(6月3日途中辞任)。
- 昭和4年(1929年)8月14日 南満州鉄道総裁に就任。
- 昭和6年(1931年)6月13日 南満州鉄道総裁辞任。10月30日 没。享年75(数え)。
[編集] 主な事跡
浴衣の卒業式
甲武鉄道(現:中央本線)の直線
- 甲武鉄道の工事担当者であった時期、中野~立川間の線路敷設で悩んでいた。青梅街道や甲州街道沿いに敷設したかったが、当時鉄道敷設には強烈な反対運動が起こっていた。しかし、反対運動がないところを通せば、利用客は少ない。悩みに悩んでついに怒り心頭に発し、地図上に「えい、やっ」と、一直線の赤線を引いた。これが、現在の中野駅から立川駅に至る約25kmの直線であるという。当時は、一面の原野と桑畑だった。なお、この話については「測量技師がルート選定にいろいろ注文を付けられて腹を立て、放り投げた定規が地図の上に落ちたところに決めた」という異説もあり、いずれも伝説の域を出ないと思われる。
日本鉄道(現:東北本線)建設の猛烈監督
- 栗橋から宇都宮までの建設を担当した。朝は5時に起きて床の中での朝食後、洗顔もせずに靴を座敷ではいて現場に行き、昼食は付近の畑から野菜をもぎとり、一日中歩きまわって親方達を督促し、月が出るまでは工事をやめさせないという仕事振りを発揮した。測量などでは邪魔になる家屋があると無断で壁に穴をぶちあけるという奇行ぶりであったという。しかし、工学士としてはじめて鉄道をつくっただけあり、それまでの線路より合理的に作られていると評判になった。
碓氷峠のアプト式鉄道建設
- 碓氷峠を越える鉄道建設ルートの検討では、25‰から100‰にも達する急勾配線、ループ線、スイッチバック、鋼索鉄道などが候補に挙がっていた。しかし鉄道局長官井上勝は、当時ドイツに留学中の仙石と吉川三次郎からの報告により、明治18年(1885年)ドイツで60‰の勾配をラックレール(歯型レール)で登る鉄道が完成したことを知り、横川~軽井沢間をアプト式鉄道で建設することを決定した。明治24年(1891年)に着工し、明治26年(1893年)に開通している。
九州鉄道の設立
- 明治29年に筑豊鉄道社長に就任したのち、九州内の鉄道経営の合理化を図って会社合併を進めた。2年後に結実して九州鉄道が創立され、社長に就任した。末期には、豪華客車をアメリカのブリル社に発注したりもしているが、日本に到着したのは同社の国有化後で、満足に活用される事はなかった。余談ながら、この九州鉄道の社長時代にしばしば山陽鉄道を利用したが、そのスピード運行ぶりには批判的な感想を残している。
鉄道広軌化
- 仙石は鉄道広軌化論者であり、鉄道院総裁時にはいろいろな献策をしている。詳しくは日本の改軌論争を参照。
電車運転不調の謝罪広告
- 1914年(大正3年)の東京駅開業に合わせ、東京駅~高島町駅(現在は廃止)の間で電車運転を開始した。しかし、軌道が固まっていなかったことや米国製パンタグラフの不調もあって、運行開始当日から電車が立ち往生するトラブルが発生。その後も収束しなかったことから、鉄道院総裁である仙石の名前で新聞に謝罪広告が掲載されるに至った。