仁保事件
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仁保事件(にほじけん)とは、1954年10月26日に山口県吉敷郡大内村仁保(現在の、山口県山口市仁保下郷)で起きた一家6名が殺害された殺人事件と、それによって生じた冤罪のこと。
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[編集] 事件の概略
[編集] 事件発生
事件は、1954年10月26日の午前0時頃に発生した。
事件現場は、JR(当時は、日本国有鉄道の)山口線仁保駅の東北に2キロほど行った山あいの中腹に位置する農家の一つで、一家の主で農業を営む男性(49歳。年齢は事件発生当時、以下同じ)と、その妻(42歳)、母親(77歳)、三男(15歳)、四男(13歳)、五男(11歳)の6名が襖で隔てられた3つの部屋で蒲団に入って就寝していたところを犯人に襲撃された。
この一家は地元では裕福な農家の一人で近隣に8反もの農地と山林を所有しており、女性関係も派手だったという。
6名は頭部や顔面を鈍器で殴打されたり、頸部と胸部を鋭利な刃物で刺されたりされ、蒲団の上で血染めになって死亡していた。後に、捜査当局は頭部を鍬で割り、頚動脈を切り心臓を刺すという執拗な殺害方法であると断定した。
事件が発覚したのは、同日早朝の午前7時頃。いつもと違ってこの農家の雨戸が開いていない点を不審に思った隣家の主婦が不審に思い家の中を覗き見たところ6名の遺体を発見、警察へ通報した。
[編集] 難航する捜査から犯人逮捕まで
当時、事件に関して県警は以下のような鑑識結果を得ており、毎日新聞の11月14日に報じている。
- 事件は単独犯である。
- 凶器で被害者の頭部を強く殴打していることから、犯人は返り血を浴びていない。
- 母親が寝ていた部屋から発見された1.5メートルほどの縄は、外部から持ち込まれたモノである。
- 事件は午前0時頃に起こった。
- 足跡から察するにかなりの大男である。
- 毒物を用いての犯行ではない。
- 現場で発見された土は、犯人が付近の水田から持ち込んだものである。
- 犯人は現場から物を盗んだ形跡はない。
事件発覚当初、山口県警察は怨恨説と物盗り説の両方を想定して進められた。
その上で、事件現場の近隣の前科者約160名を容疑者としてリストアップし、一人一人虱潰しに捜査を行なった。このリストには後に本事件の犯人として後に冤罪犯とされた男性も含まれていたが、当初は事件の発生した1年半前から郷里を出奔していたことからリストから外されていた。
しかし、そうした捜査陣の努力とは裏腹に捜査は予想以上に難航した。
県警は怨恨説から事件宅の隣家の主人を逮捕。しかし、証拠不十分から23日の拘留期限で釈放された。
業を煮やした県警はリストを徹底的に洗い直し、新たな容疑者として事件当時37歳の男性が浮上してきた。しかし、説得力のある証拠は何一つ存在せず、リストからの消去法で選ばれただけであった。
県警は山口県を出奔する前に関与したとされる窃盗未遂事件で全国に指名手配した。この事件は男性の友人と二人で商店に侵入したものの結局は何も盗まなかったというものであった。窃盗という軽微の事件での全国指名手配は当時としても極めて異例である。
これにより、男性は1955年10月19日に大阪府大阪市天王寺区の天王寺駅にて逮捕された。翌日、10月20日に大阪から山口警察署へと移送された。
[編集] 取調べから起訴まで
大阪から山口県警へ移送された男性は10月31日に仁保事件とは別の窃盗事件で起訴された。余談ではあるが、この時男性は贔屓にしていた弁護士による弁護を求めたが、警察が取り合わなかったことから本件での起訴まで弁護士がつくことがなかった。そのため、男性は孤立無援の状態で警察の取調べを受けることとなった。
そして、11月2日に山口県警での仁保事件に関する取調べがスタートした。
しかし、前述のように確固たる証拠のない状態での取調べであったことから当然のことながら男性は彼自身のアリバイを申し立てて、犯行への関与を否定、調書によれば初めて否認したのは11月9日(ただし、調書がとられたのは翌日の11月10日)となっている。
その後、11月22日の調書に犯行の自供が記録されているが、自供そのものは録音テープ(後述)によれば11月11日になされている。つまり、初めての自供から調書に記録が残るまで11日も経過しており、その間男性の供述は常に迷走していた(これは当然のことながら彼が犯行に関与していないからであるが)。それゆえ、自供が最終的な形となったのはなんと検察官による取調べが行なわれる1956年3月22日のことである。
翌年、1956年2月1日に山口拘置所に移管。同年の3月23日に男性を連れての現場検証。 1956年3月30日にようやく起訴の運びとなった。
[編集] 録音テープの存在
この事件では日本の警察では珍しく取調べの様子が録音テープに記録が残っている。後述するようにこのテープはのちのち重要になるのでここで詳しく触れておく。
これは、仁保事件の3年前に同じ山口県で起こった冤罪事件である八海事件で被告の自供が法廷での争点となった点を踏まえたものであった。
このテープは全部で33巻にも及ぶ。しかし、これは決して取り調べの全容を網羅したものではなく、飽くまでその一部を記録したものに過ぎない。しかも、テープは法廷でもか検察側によって被告の自供を補強する役割しか果たさなかった。
テープには警察での取調べの様子が克明に記録されているが、そこには警察による被告に対する執拗な取調べの様子が窺える。
余談ではあるが、録音装置の性能が遥かに向上した現在でもなお、警察の取調べに録音テープが用いられることは極めて少ない。冤罪防止の観点からイギリスのように取調べでの録音を義務づけるべきだと主張する法学者もいる。
[編集] 起訴から無罪放免まで(裁判の経過)
仁保事件は再審を経ずに死刑判決から逆転無罪判決が下った事件である。余談ではあるが、日本で再審を経て逆転無罪の判決が下ったのは発生が古い順(括弧内は事件が発生した年)から免田事件(1948年)、財田川事件(1950年)、島田事件(1954年)、松山事件(1955年)の計4件である。
[編集] 仁保事件の問題点
仁保事件は他の冤罪事件と共通した特徴を有していたが、それらの教訓が生かされることがなかった。
仁保事件の問題点は以下のようなものである。
- 警察及び検察の結論ありきによる捜査と取調べ。
- 物的証拠を軽視した自白偏重主義に基づいた捜査。
- 弁護士不在という孤立無援の状態での長期間の取調べ。
- 長期間にも渡る拘留。
- 長期間に渡る取調べと拷問にも似た苛烈な取調べ。
ちなみに、男性は後に取調べでは以下のような拷問が行なわれたと主張している。
- 取調べ中に、正座をさせ、足が痺れて動かなくなったのを見計らって髪や肩を引っ張り、膝の上に乗ったりする。
- 両側から膝を強く蹴る。
- 竹刀や竹箒を正座している足の間に入れる。
- 鉛筆を指の間に入れて捻る。
- 頭に柔道の帯を縛り付けて、その端をズボンに括りつけて、体を反らした形で固定しておく。
- 座敷箒で顔を逆さに吊り上げたたり、指で鼻を弾いたりした。
- 両耳を2名の刑事が大声を発しながら、反対側に捻る。
- 寒い時に、やかんで水を浴びせかけたり、団扇や扇風機で扇いだり、金属の盆を当てたりした。
といったものである。
上に述べたように、仁保事件では従来の(そして、仁保事件以後の)幾多の冤罪事件の教訓は生かされることはなかった。
[編集] 補足
- 事件現場は現在では草木に覆われており、凄惨な事件の痕跡を残すものは何もないという。
- 仁保事件に題を得た「自白」というドキュメンタリードラマを朝日放送が1972年11月11日に放送を予定していたが、中立を欠いており、肖像権の侵害に当たるとして、前日に放送が急遽中止になった。又、同じく朝日放送が12月24日に冤罪の嫌疑を受けた男性に密着取材をした「二四時間」を放送予定だったが、これも中止となった。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 「自白の心理学」 浜田寿美男・著 岩波書店(岩波新書) 2001年