上野戦争
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上野戦争(うえのせんそう, 慶応4年5月15日(グレゴリオ暦1868年7月4日))は、江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いで、戊辰戦争の戦闘の1つである。
[編集] 概要
慶応3年(1867年)に15代徳川慶喜が大政奉還を行った事により江戸幕府は消滅し、王政復古を経て明治新政府が成立する。京都において鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍と新政府軍の衝突が始まると、慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸ヘ向かって進軍させる。江戸城では主戦派の小栗忠順や榎本武揚らと恭順派が対立するが、慶応4年3月13日(1868年4月5日)に新政府軍の大総督府参謀である薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟の会談により、慶喜の水戸謹慎と4月11日(5月3日)の江戸城の無血開城が決定して江戸総攻撃は回避される。
抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成して、本営を本願寺、後に上野へ移る。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかる。慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から分離すると彰義隊は天野らの強硬が台頭し、旧新選組の残党などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して輪王寺公現法親王(北白川宮能久親王)を擁立する。
新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断する。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とする。
5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突する。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤半砲による砲撃を行う。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射するが、黒門口では西郷が指揮し、防備が破れると彰義隊は瓦解し午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅した。
戦いの結果、新政府は江戸以西を掌握し、江戸は東京と改められる。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移る。徳川将軍家は石高73万石に減じ駿河国に移された(静岡藩)。
戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また敵の敗走路の大村の予測通りであったとされる。戦闘が行われた黒門は荒川区の円通寺に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている。
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