上杉顕定
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上杉顕定
- 南北朝時代の人物。扇谷上杉氏当主。
- 戦国時代の人物。山内上杉氏当主。関東管領。
[編集] 上杉顕定(扇谷上杉家)
上杉顕定(うえすぎあきさだ、正平6年/観応2年(1351年)-天授6年/康暦2年(1380年))は、南北朝時代の人物。扇谷上杉氏の当主。上杉朝定の養子。実父は上杉藤成。養子に上杉氏定。別名定成。伊予守、式部大夫。
鎌倉公方に仕え、扇谷の地に居住し、扇谷上杉氏の祖となった。
[編集] 上杉顕定(山内上杉家)
上杉 顕定(うえすぎ あきさだ、1454年(享徳3年) - 1510年7月25日(永正7年6月20日))は、室町時代後期・戦国時代の山内上杉氏の関東管領。越後守護の上杉房定の子で前任の関東管領の上杉房顕の養子。官位は右馬頭。民部大輔。後任の関東管領上杉憲房は養子。
1466年2月、養父の房顕が武蔵国で陣没した後、実父の房定と家宰の長尾景信に擁され、その家督を継いで当主となった。古河公方の足利成氏と関東の覇権をかけて争い、1471年にはこれに勝利している。しかし1476年、有力家臣の長尾景春が離反したため、勢力拡大に失敗する。1478年、成氏と和睦して矛先を扇谷上杉氏の上杉定正、上杉朝良らに変更して争う。はじめは名将・太田道灌の存在により敗戦を重ねていたが、定正が道灌を謀殺するとその争いで優位に立った。
1507年、顕定の弟で越後国の守護を務めていた上杉房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺されると、その報復として1509年、越後に攻め入り為景を越中国に追放した。しかし翌年、力を盛り返した為景の反攻に遭い、6月20日の長森原の戦いで長尾軍と戦って敗死した。享年57。