ヴィシー政権
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ヴィシー政権(ヴィシーせいけん)は、第二次世界大戦中の合法的なフランスの政権(1940年 - 1945年)。フランス中部の町、ヴィシーに首都を置いたことから、そう呼ばれた。ヴィシー政府、ヴィシー・フランスともいい、この政権下の親独的中立政治体制をヴィシー体制と呼ぶ。正式国名は、フランス国(État français, エタ・フランセ)。
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[編集] 概要
[編集] 親独的中立政権
1940年6月にフランスが、ドイツとイタリアに対し休戦を申し入れた。休戦協定により、パリをふくむ北部と西部をドイツに、マルセイユを含む南部をイタリアに保障占領されたため、首都はパリから中部の都市であるヴィシーに移転した。政府首班には、第一次世界大戦時にフランス軍の指揮を取ったフィリップ・ペタン元帥が高齢の身にも関わらず就任した。海外植民地及び海軍は降伏前からのものを引き続き保有した。本国の陸軍は10万人に制限されたが、植民地軍はこの制限の適用範囲外とされた。
選挙で選ばれたわけではないものの、法的には正式な手続きで登場した正統なフランス政府であり、法的にはドイツの傀儡政権ではない。しかし新たに制定された憲法の内容は「全権力をペタン将軍に委任する」の1条のみという、かなりお粗末なもので、その後の政策はドイツの意図に沿うもののみが適用されたため、事実上の傀儡政権と言われている。
[編集] 内外の反応
[編集] レジスタンスの神話
多くのフランス人は、この政権を中立的だが親独的政権として認識し、多くは現状に従った。一部にレジスタンス活動を始める動きもあったが、ごく少数でエピソードの域を出ないのが実情だった。所謂“レジスタンス”神話は、戦後になってド・ゴール政権が自己の正統性の根拠として過大に作られたものがほとんどである。そのシャルル・ド・ゴールは、フランスの休戦に同意せずイギリスに逃れ、ロンドンに亡命政権の自由フランスを樹立した。ヴィシー政府は合法的なフランス政府として“脱走兵”のド・ゴールを本人欠席の軍事裁判において重刑に裁いた。戦争後半になり、連合国軍が北アフリカに上陸し、フランス植民地を占領するにおよび、ドイツは1942年11月、フランス全土を占領した。
[編集] フランス国民の反応
多くのフランス人は積極的、消極的を問わずヴィシー政権を認めた。イギリス軍がフランス軍艦艇を攻撃(メルセルケビール海戦、ドイツに渡さないための攻撃)したため、初期において反英気分があった。そのためトーチ作戦の際、対ヴィシー政権軍に配慮が必要であった。しかし、政変で親独性が強まると反独機運が高まった。一方イギリスやアメリカ合衆国を含めた連合国側は、その親独的中立性からヴィシー政府に対しては敵視政策をとった。しかし当初は、フランスの軍法においては一介の“脱走兵”でもあったド・ゴールの率いる“自由フランス”と称する「亡命グループ」も、連合国首脳からの支持を本格的に得られたとは言いがたく、その状態は芳しくはなかった。特にアメリカ大統領のルーズベルトは、ド・ゴールが選挙で選ばれていないことと、その前時代的で強権的な言動を批判し、正式な亡命政権として認めていなかった。また、ナチスがフランス全域を支配したとき、大勢のフランス人は沈黙していた。
[編集] 枢軸国との関係
日本や満州国、イタリアなどの枢軸国各国はヴィシー・フランスを承認しており、日本はヴィシー政権との協定をもとに、フランス領インドシナに進駐(仏印進駐)した。その後の1944年に行われた連合国軍によるフランス解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー-日本間の協定無効宣言が行われた後、1945年3月に日本軍によるインドシナ政庁をめぐるクーデターが起きるまで、インドシナ植民地におけるフランスの主権は存続した。
[編集] 文献
- 長谷川公昭(著)、『ナチ占領下のパリ』、草思社、1987年、1987年、ISBN 4-7942-0264-4
- ジャン・ドフラーヌ(著)、大久保敏彦・松本真一郎(訳)、『対独協力の歴史』、白水社、1990年、ISBN 4-560-05705-2
- ロバート・O・パクストン(著)、『ヴィシー時代のフランス。対独協力と国民革命1940-1944』、柏書房、2003年
[編集] 関連記事
- フランスの歴史
- 対独協力派(コラボ)
- フランス・ファシズム
- アクション・フランセーズ
- 火の十字団
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- 解放フランス(ドリオの親独的亡命政権)
- 自由フランス(ド・ゴールの反独的亡命政権)
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