ワシントン・アーヴィング
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ワシントン・アーヴィング(Washington Irving, 1783年4月3日 - 1859年11月28日)は、19世紀前半のアメリカ合衆国の作家。彼はおそらく、代表作『スリーピー・ホローの伝説 The Legend of Sleepy Hollow』と『リップ・ヴァン・ウィンクル Rip van Winkle』(どちらも『スケッチ・ブック The Sketch Book of Geoffrey Crayon』収録)のために短編小説作家として最もよく知られているかもしれないが、エッセイや伝記、その他様々なジャンルの作品においても多作な作家であった。彼とジェイムズ・フェニモア・クーパーはヨーロッパで喝采を受けた最初のアメリカ人作家であり、アーヴィングはナサニエル・ホーソーンやヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー、エドガー・アラン・ポーといった作家達の教授を受けたと言われている。
目次 |
[編集] 生涯
アーヴィングはマンハッタンに生まれた。法律家でもあった彼は、アメリカの対イギリス・スペイン外交官のメンバーであった。彼は流暢なスペイン語を話し、そのことでスペインに関する彼の著書は素晴らしいものとなった。また、ドイツ語やオランダ語など、ほかにもいくつかの言語を読むことができた。アーヴィングは多作で、多くの場で尊重されているジョージ・ワシントンやムハンマドといった人物の伝記や、コロンブス、ムーア人、アルハンブラ宮殿など15世紀スペインに関する多くの本を書いた。
アーヴィングは1830年代に西部のフロンティアを旅し、西部の民族に関して一瞥したところを『プレーリーの旅 A Tour on the Prairies』(1835年)に記した。彼は、ヨーロッパ人やアメリカ人とネイティブアメリカン民族との関係を悪化させることに反対する以下のような発言をしたことで知られている:
- 植民時代の初期には、白人達のために二重に中傷された数多くの不幸な先住民がいた。彼らは金目当てで頻繁に起こされた理不尽な戦いによって先祖代々の領土を追い出され、さらには彼らの人柄も、頑迷で不純な作家達によって中傷されたのである。
彼の自宅は有名なサニーサイド(Sunnyside)で、現在もニューヨークのタッパン・ジー・ブリッジのすぐ南にたっている。この家と周囲の土地はもともと18世紀の入植者ウォルファート・アッカーが所有しており、アーヴィングは彼についての短編『ウォルファートのねぐら Wolfert's Roost』を書いている。
テキサス州の都市アーヴィングや、アラバマ州バーミングハムのワシントン通り(Washington Street)とアーヴィング通り(Irving Street)は、彼の名にちなんで名付けられたと信じられている。また彼の著書『ブレイスブリッジ・ホール Bracebridge Hall』は、オンタリオ州ブレイスブリッジの名の着想となった。
[編集] 作品
アーヴィングの最初の著書は、『世界の始まりからオランダ王朝の終焉までのニューヨークの歴史、ディートリヒ・ニッカーボッカー著 A History of New-York from the Beginning of the World to the End of the Dutch Dynasty, by Dietrich Knickerbocker』(1809年)である。これは尊大な地域の歴史に基づく悪賢い諷刺文で、この作品によってニッカーボッカーという言葉が辞書に載るようになり、英語でより広く使われるようになった。
アーヴィングは1815年にヨーロッパへの旅に出た。1819年~1820年、彼は最も有名な作品『スリーピー・ホローの伝説』と『リップ・ヴァン・ウィンクル』を含む文集『スケッチ・ブック』を刊行した。ヨーロッパ滞在中、彼はアメリカのイギリス使節団のメンバーであったが、ひまな時に彼は大陸部へ旅行に出かけ、オランダやドイツの民間伝承を幅広く読んだ。『スケッチ・ブック』に収録されている物語はヨーロッパでアーヴィングが書き、ニューヨークにある出版社へ送られて、アメリカの雑誌に掲載された。一方イギリスでは、彼の短編が彼に無断でイギリスの出版社によって製本されてしまった。そのため彼は、ヨーロッパとアメリカで同時に出版することで著作権を保護することにした。
『リップ・ヴァン・ウィンクル』は、彼が妹のサラとその夫ヘンリー・ヴァン・ウォルトと共にイングランド・バーミンガムに滞在していた時に、一晩で書き上げられた。この場所は彼に他にもいくつかの作品の着想を与えた—『ブレイスブリッジ・ホール、またはユーモリスト:寄せ集め Bracebridge Hall or The Humorists, A Medley』は、この地にあるアストン・ホール(Aston Hall)が基になっている。
アーヴィングは4年間のスペイン滞在中、1828年に『クリストファー・コロンブスの生涯と航海 The Life and Voyages of Christopher Columbus』、翌年に『グラナダの占領 Conquest of Granada』、1831年に『コロンブスの仲間達の航海 Voyages of the Companions of Columbus』を執筆している。アメリカへ帰国する直前、彼はイギリスとアメリカで同時に刊行される作品『アルハンブラ物語 Tales of the Alhambra』(1832年)を執筆した(この作品の本来の題名は、収録された短編の名を全て合わせた冗長なものである。1851年にアーヴィングは「作者改訂版」を執筆し、この時に『アルハンブラ物語』と題した)。
アーヴィングは1832年にアメリカに帰国し、1835年に『スペインの征服者達の伝説 Legends of the Conquest of Spain』を出版している。しかしこの時期の彼の主要な作品は3作の「西部」の本で、これらはアーヴィングがイギリスやスペインで過ごした時間が、彼をアメリカ人よりもヨーロッパ人に近づけてしまったことを忘れさせるために作られた。彼の最初の西部作品は1835年の『プレーリーの旅』である。この本の第10章の始まりは以下のような文章を含み、一部の文芸評論家から、彼の外面的様相に関するコメントであると解釈されている:
- 私たちは自らの青春をヨーロッパにおいて豪華で柔弱なものにするため外国へ送り出した;私にはこう思える、その前のプレーリーの旅は、人間らしさ、単純さ、自己依存などを、ほとんど私たちの政治団体と調和して、生み出してくれそうだ。
彼の二番目の西部の本は『アストリア Astoria』である。彼はこの作品を、当時すでに引退していた大商人ジョン・ジェイコブ・アスターのもとに滞在していた6ヶ月の間に執筆した。この作品はアスターの、毛皮貿易植民地(現在のオレゴン州アストリア)を作ろうとした試みに対する尊敬に満ちた物語である。
アーヴィングがアスターと共に滞在している間に、軍人で探検家のベンジャミン・ボンヌヴィルが訪れた。彼が3年間にわたってオレゴン・カントリーで過ごしたという物語はアーヴィングを魅了した。1-2ヶ月後、アーヴィングがワシントンD.C.でボンヌヴィルと再会したとき、自分の旅について書こうと苦労していたボンヌヴィルは、その代わりに自分の地図とノートをアーヴィングに1000ドルで売ることを決意した。アーヴィングはこの資料をもとにして、3つの西部の本の中でしばしば最高傑作と見なされる『キャプテン・ボンヌヴィルの冒険 The Adventures of Captain Bonneville』(1837年)を執筆した。
アーヴィングはニューヨーク市に対する愛称「ゴッサム」(この愛称は後にバットマンの漫画や映画で用いられている)を普及させ、また「万能のドル」(Almighty dollar)という表現を生み出したのも彼だとされる。アーヴィングはまた、ジョーゼフ・ヘラーの小説『キャッチ=22』の作中で、偽造者の用いる偽名としてジョン・ミルトンと共に登場する。
[編集] 使用したペンネームと関係する書籍
ジョフリー・クレヨン(Geoffrey Crayon)
『スケッチ・ブック』、 『旅人物語 Tales of a Traveller』、 『ブレイスブリッジ・ホール』
ディートリヒ・ニッカーボッカー(Diedrich Knickerbocker)
『ニューヨークの歴史』、 「リップ・ヴァン・ウィンクル」、 「スリーピー・ホローの伝説」
ジョナサン・オールドスタイル(Jonathan Oldstyle)
『ジョナサン・オールドスタイルの手紙 Letters of Jonathan Oldstyle』
[編集] 伝記
- 『ワシントン・アーヴィングの生涯』 スタンリー・T・ウィリアムズ著、1935年(英語)
[編集] 外部リンク
カテゴリ: アメリカ合衆国の小説家 | 1783年生 | 1859年没