レザー・パフラヴィー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
レザー・シャー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)は、イランのパフラヴィー朝の創始者(在位:1925年 - 1941年)。レザー・ハーンともリザー・シャーとも呼ばれる。
[編集] 生涯
1878年、カスピ海南岸のマーザンダラーンの名門の家に生まれた。若くして軍人となり、ペルシアのコサック師団の将校となる。1921年、2500の兵を率いてクーデターを起こしてテヘランを奪う。1924年から1925年の間はイラン軍の司令官、首相となり、1919年に結ばれていたイギリス・イラン協定を破棄して治外法権の撤廃に成功した。そしてこれらの経緯から国民の人望を得たレザーは1924年にカージャール朝の廃止を議会で議決し、翌年に自ら皇位に就いてパフラヴィー朝を創設したのである。
その後は国内統治に尽力する。1926年には司法改革に着手。1927年には国民銀行の創設。1929年には義務兵役制度(徴兵制度)を制定する。さらにアメリカから財政顧問官を招聘して財政改革に当たり、差別的な風潮をなくすために女性解放の制度を定めたり、教育改革を行なったりするなど、国家の近代化に務めた。対外的には国際連盟に加盟し、1935年には国号をペルシアからイランに改名し、中央集権化を確立した。
さらに1938年にはイラン縦貫鉄道を完成させるなど産業の育成にも尽力した。しかし国家の近代化を進めたことは多くからの支持を集めていたが、政治においては皇帝による独裁色が強かったために国民の反発を招き、1941年にイギリスとソ連の連合軍が侵攻してくると、子のモハンマド・レザー・パフラヴィーに皇位を譲って退位することを余儀なくされ、モーリシャス島に流された。 その後、南アフリカのヨハネスブルクに流され、同地で1944年、67歳で死去した。
皇帝として近代化に務めたことは高く評価されているが、独裁を強めたことが自らの運命を暗転させてしまったのである。
先代: |
パフラヴィー朝 | 次代: モハンマド・レザー・パフラヴィー |
カテゴリ: イランの人物 | パフラヴィー朝の君主 | 1878年生 | 1944年没