ポール・ラドミロー
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ポール・ラドミロー(Paul Ladmirault, 1877年12月4日 ナント - 1944年10月30日 モルビアン県キャモエル)はフランス近代の作曲家で、ブルトン人の民族主義者。そのため、アイルランドやスコットランドのケルト系の民族音楽を好んで作曲の素材に用いた。
[編集] 略歴
少年時代から早熟な楽才を発揮し、8歳でヴァイオリン・ソナタを作曲。ナントのリセで2年生だった頃には、3幕の歌劇《ジル・ド・レー》を作曲し、1893年5月18日に初演されている。
パリ音楽院に進み、ガブリエル・フォーレの作曲科に在籍しながら、和声法をトードゥに、対位法をアンドレ・ジェダルジュに師事。フォーレの作品のいくつかにオーケストレーションを施している。モーリス・ラヴェルやフローラン・シュミット、ルイ・オーベール、ロジェ=デュカス、ナディア・ブーランジェ、ジョルジュ・エネスコと並んでフォーレの高弟のひとりとなり、これらの同窓生と同じく、卒業前から有名人となったが、この中では誰よりも繊細で穏健な作風を採った。
1903年に3楽章の《ブルターニュ組曲 Suite bretonne 》に、次いで交響詩《朝のブロセリアンド Brocéliande au matin 》に着手。後者は歌劇《 Myrdhin 》の第2幕への前奏曲に用いられた。ほかに、《ゲール風狂詩曲 Rhapsodie Gaélique 》(1番~6番)、連作交響詩《ラ・ブリエール La Brière 》や《森にて En Forêt 》、4楽章の《交響曲》、《セルバンテスの青春時代 la Jeunesse de Cervantès 》といった管弦楽曲がある。
また、ピアノとオーケストラのための《悲しきワルツValse triste 》や《 Épousailles 》のような作品もある。劇場用作品として、ナントで上演された《 Myrdhin 》、1926年に初演されたバレエ《月の巫女 La Prêtresse de Korydwenn 》、ジョゼフ・ベディエの『トリスタン(ケルト人の魂を称えて)Tristan (exaltation de l'âme celte) 』のための劇付随音楽がある。
宗教音楽の分野では、オルガンと合唱のための《小ミサ曲 Mass brève 》や、声楽とオルガン、オーケストラのためのモテット《タントゥム・エルゴ Tantum ergo 》がある。
メロドラマ《ロバの思い出 Les Mémoires d'un Âne 》は、2002年に〈東京の夏〉音楽祭において有森博のピアノ独奏と岸田今日子のナレーションにより、日本初演が行われた。ちなみにこの作品には、「ロンドンデリーの歌」を変形したものが引用されている。
1920年にはナント音楽院の教授に任命されている。キャモエルのケルビリ(Kerbili)地方に隠居して余生を送った。つつましい生涯に相応しく、人知れぬ最期であった。フローラン・シュミットはかつての友人についてこう述べている。「同世代の音楽家の中でも、おそらく彼が最も才能に恵まれ、最も独創的だった。ただし、最も遠慮がちでもあったが。」
[編集] たたかうブルトン人
ブルトン人の民族主義団体「 Breiz da Zont 」と、(ポール・ル・フレムやジョルジュ・アルヌーも加入していた)芸術家集団「 Seiz Breur 」の会員となり、フランソワ・タルディ=ジャフルヌーからケルトの伝統文化の奥義を伝授された。バレエ音楽《月の巫女》のような作品は、ケルト的な題材によっており、交響詩《ラ・ブリエール》は、ブリエール地方を舞台とした同名の映画のための楽曲が原曲である。またラドミローはウェールズ語の文書の翻訳にも取り組んでいた。