ナディア・ブーランジェ
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ナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger, 1887年9月16日 - 1979年10月22日)は、フランスの音楽教師、指揮者。音楽教育の分野で20世紀最大の功績を残した。6歳下の妹に作曲家のリリ・ブーランジェがいる。
[編集] 略歴
パリ生まれ。ナディアの父エルネストは、1835年にローマ賞を受賞した作曲家。
- 1897年、パリ音楽院に入学。
- 1904年、パリ音楽院を卒業。和声科、対位法科、オルガンフーガ科、ピアノ伴奏科で1等。
- 1908年、ローマ賞で2位。パリ音楽院の和声科クラスを受け持つ。
- 1918年、妹のリリ・ブーランジェ没。
- 1921年、フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院教授。エコール・ノルマル音楽院でポール・デュカスの助手となる。
- 1940年、渡米し、ボストン交響楽団やニューヨーク交響楽団を指揮。
- 1946年、パリ音楽院ピアノ伴奏科教授。
- 1950年、フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院院長。
[編集] 「厳格」な教育者
ブーランジェが教えた音楽家は、アーロン・コープランド、エリオット・カーター、レナード・バーンスタイン、フィリップ・グラス、ピエール・アンリ、ディヌ・リパッティ、イーゴリ・マルケヴィチ、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、アストル・ピアソラ、キース・ジャレット、ミシェル・ルグラン、クインシー・ジョーンズなど多数。ジョージ・ガーシュインも師事を望んだが果たせなかったという。
これらの音楽家たちを見れば明らかであるが、アメリカや南米など非ヨーロッパの音楽についても、その魅力を見出し、才能を開花させていることが特筆される。カーターの東海岸アカデミズムへ繋がるピッチクラスセット理論やジャレットの「ケルン・コンサート」の採譜に驚くほどの整合性がとられているのは、ブーランジェの影響抜きには語れない。
音楽教育については厳格で知られる。マイケル・フィニスィーは「彼女は英国王立音楽院に客員教授として招かれ、私もそのレッスンを受けましたが、あれは変人の類でした。」と語っている。とはいえ、その厳格さは、一方的、一面的であることを意味しない。次のようなブーランジェの言葉に、そのなにほどかが示されていよう。
- 「教師とは、生徒の資質いかんによる。その役割は、世間の評価を期待するほど絶大でも絶対的でもない。」
- 「私は正しく、あなたは間違っているではなく、あなたが間違っているように思うけれど、それは決して私が正しいという意味ではない。」
[編集] ブーランジェの音楽的才能
ナディア・ブーランジェは、12歳のときにはヨハン・セバスチャン・バッハの『平均律クラヴィーア曲集』をすべて暗記していた。のちに音楽教師となっても「バッハは人生の良きパートナー」として、音楽課題にも必ずバッハの曲を取り上げたという。
作曲に関しても非凡で、ローマ賞の2位を獲得するほどであったが、妹リリの才能を見て、「よく書けているだけでは傑作とはいえない。」として、作曲の筆を折ったといわれている。その後は生涯を教育に捧げた。また、指揮者として、バッハ、師ガブリエル・フォーレや妹リリを初めとする同時代の音楽を演奏し、録音も残されている。ピアニストとして、アレクサンドル・チェレプニンのピアノ協奏曲第2番の二台ピアノ版の初演を作曲者と二人で手がけたこともある。
音楽的に最も影響を受けたのは、パリ音楽院で作曲法を師事したフォーレである。フォーレとは次のような逸話が残っている。フォーレの晩年、雑談をしていたときにフォーレが「君が作曲をやめて良かったかどうか疑問だ。」と述べた。ブーランジェが「無意味な音楽を書いてなんになるでしょう。教師として他人に情け容赦のないことをいうからには、自分に対してはなおさら厳しくあるべきです。」と答えたところ、フォーレはピアノに向かって、ブーランジェが14歳か15歳のときに書いた練習課題の一部を弾いてみせ、「それでもやはり、ここには普通でないなにかがあったんだよ。」と語ったという。
ブーランジェは生涯独身であった。詩人のポール・ヴァレリーは、ブーランジェを「音楽の化身」と語っている。