ヘルムート・シュミット
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ヘルムート・ハインリッヒ・ヴァルデマール・シュミット(Helmut Heinrich Waldemar Schmidt, 1918年12月23日 - )は、ドイツ(西ドイツ)の政治家。ドイツ社会民主党(SPD)所属。第5代連邦首相(在任: 1974年 - 1982年)。短期間だが、外務大臣の経験もある。
[編集] 略歴
[編集] 経歴
1918年ハンブルクの生まれ、両親はいずれも教師だった。ハンブルクのリヒトヴァルク高校を卒業した後兵役に入り、第二次世界大戦が始まった時は、まずブレーメンで空軍に所属た。東部戦線に短期間送られた後、1942年帝国空軍省の教官兼顧問としてドイツに戻ってきた。そして、1942年、ハンネローレ・"ロキ"・グレーザーと結婚した。戦争の終結近くには彼は西部戦線で砲兵隊の大尉をしていた。1945年リューネブルガーハイデでイギリス軍に捕虜にされ、8月まで戦時捕虜になっていた。
彼は、大学教育をハンブルクで修了し、経済学と政治学を学んだ。1946年にはSPDに入党、1947から1948年にかけてSPDの下部の学生団体であるドイツ社会主義学生連盟(der Sozialistische Deutsche Studentenbund - SDS)のリーダーを務め、1949年に大学を卒業した。
大学を出てから、彼はハンブルクの自治体職員となり、まず商工振興の部門で、その後1952年からはハンブルクの経済、運輸部門の長であったカール・シラーの下で働いた。1953年から1962年まで彼は、連邦議会でSPDの仕事に携わっている。
[編集] 政暦
1953年、連邦議会の議員に選ばれ、1957年にはSPDの院内総務の一員に選ばれた。1958年SPDの州代表メンバーの一員に選らばれ、核兵器撲滅キャンペーンや国防軍の削減などのキャンペーンに参加。
1961年、彼はハンブルク州政府の内務相になる。1962年の大洪水では彼の率先した指導力が被害の拡大を防ぎ、これで彼の名は広く知られるようになった。1965年連邦議会に再出馬、1967年には連邦議会内のSPDのリーダーの座に就き、1968年には会派の副議長になった。ヴィリー・ブラント政権で国防大臣に就任し、これが彼の最初の大臣職となる。1972年7月から、11月まで経済相と財務相を兼任、12月から1974年の3月までは財務相の専任となる。
1974年3月16日、ブラントが「ギョーム事件」によって退任した後を受けて、連邦首相(Bundeskanzler)に就任した。オイルショックによる世界的な経済不況の中で、彼は積極的な景気維持の策をとった。彼はフランスやジスカールデスタン大統領と積極的な関係改善に乗り出し、1975年のヘルシンキ条約で全欧安保協力機構(OSCE)の創設に貢献した。彼は、1976年以降も自由民主党(FDP)との連立内閣によって、政権に留まった。テロリスト集団ドイツ赤軍の分派に対する彼の対処は、困難ではあったが、妥協しない断固としたもので、テロリストによるルフトハンザ機のハイジャック事件に際しては、テロ対策特別部隊GSG-9を投入して、それを果断に鎮圧した。 彼は自らの政治的展望をソ連のアフガニスタン侵攻に絡んだNATOの拡張政策と絡ませていた。かくて彼の党派は、1980年の選挙でついに「二重決定」へ向けて突き進んだ。彼は結局1980年11月首相としての再指名を果たすことが出来た。しかし、1981年10月、彼は心臓にペースメーカーを入れる羽目に陥る。
1982年彼は連邦議会からの不信任案に競り勝つも、9月連立与党FDPから入閣の大臣4人が、内閣を去り、SPDのみでの少数与党で内閣の政権維持の試みを重ねた挙句、10月1日不信任決議によって、政権の継続断念を余儀なくされた。これは、戦後西ドイツ史では初めての出来事である。後任の首相はヘルムート・コールになった。
1983年、彼は週刊新聞「ツァイト」(Die Zeit)の共同編集者に就任した。1985年には経営代表責任者(Managing Director)に納まった。1983年には福田赳夫と共に協調行動評議会(InterAction Councils )にも参加している。彼は、1986年に連邦議会の議員職からは引退を表明したものの、政治については活発な発言を続け、1986年12月にはEMCを支援しヨーロッパ中央銀行の創設を側面から援助するための委員会の創設にもかかわった。
- ドイツ連邦共和国首相
- 第5代: 1974 - 1982
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- 先代:
- ヴィリー・ブラント
- 次代:
- ヘルムート・コール