ブラチスラヴァ
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ブラチスラヴァ(スロバキア語: Bratislava)は、スロバキアの首都。人口43万人を擁するスロバキア最大の都市。ドナウ川に面しており、オーストリアやハンガリーとも国境を接する。名称はこれまで幾度も変わっており、現在の「ブラチスラヴァ」の名称は第一次世界大戦後に使われ始めた。マジャル(ハンガリー)語では ポジョニ(Pozsony)、ドイツ語では プレスブルク(Preßburg)と呼ばれる。
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[編集] 概要
ブラチスラヴァは北緯48度9分、東経17度7分に位置する。
[編集] 歴史
- 石器時代には、この地域への最初の定住の痕跡が見つかっている。
- 紀元前400-50年頃: ケルト人が定住していた。
- 紀元前125年頃: ケルト人がオッピドゥムを建造していた。
- 1世紀-5世紀頃: ローマ帝国の辺境に位置し、ローマ人とゲルマン人が定住していた。
- 6世紀-8世紀: スラブ人(西暦500年 - 現在)と Avarians(560年代 - 8世紀頃)が住み始める。
- 8世紀後半:Nitrian principalityの一部となる。
- 833年–907年: 大モラヴィア Great Moravia に属する。
- 907年–1918年: ハンガリー王国に属する(短期の中断期間を挟む。1526年から1918年まで、ハンガリー王国はハプスブルク帝国の一部だった)。
- 1536年-1784年: ハンガリー王国の首都(オスマン帝国がブダを支配したため、1699年まで、ハンガリー王国は現在のスロヴァキアと西ハンガリーの一部だけを領有していた)。
- 1542年-1848年: ハンガリー議会所在地となる(短期の中断期間を挟む)。
- 1563年-1830年: ハンガリー国王の戴冠式 (en:St. Martin's Cathedral)
- 18世紀以降:スロバキア地方の中心都市となる。
- 1805年: プレスブルクの講和条約 Treaty of Pressburg
- 1919年-1939年: チェコスロバキアの領土となる。1919年に公式都市名が“Prešporok”からブラスチバ(スロバキア語: Bratislava)となる
- 1939年-1945年: スロバキアの首都になる。
- 1945年-1969年: 再びチェコスロバキア領となる。
- 1969年-1992年: チェコスロバキアの連邦構成国であるスロバキアの行政府所在都市となる。
- 1993年: スロバキアの首都になる。
[編集] 人口構成
ブラチスラヴァの人口は、2001年の調査で428,672人であり、平均年齢は38.7歳である。
- 地区別 ブラチスラヴァ I区 44,798、ブラチスラヴァ II区 108,139、ブラチスラヴァ III区 61,418、ブラチスラヴァ IV区 93,058、ブラチスラヴァ V区 121,259
- 民族別 スロバキア 391,761、ハンガリー 16,451、ロマ 417、チェコ 7,972、ドイツ 1,200、モラビア 635、クロアチア 614、ロシア 461、ウクライナ 452、ポーランド 339
- 宗教別 ローマ・カソリック 243,048、プロテスタント(ルーテル派) 24,810、ギリシャ・カソリック 3,163、プロテスタント(カルビン派) 1,918、ギリシャ正教 1,616、エホバの証人 1,827, プロテスタント(メソジスト派) 737、ユダヤ教 700、バプティスト派 613
- 年齢別: 0 – 5才 : 4.1 %、6 – 14才: 9.8 %、生産年齢人口: 62.9 %、高齢者: 19%
[編集] 史跡
- ラチスラヴァ城
- ドナウ川を望む高台の上にあり、城からはブラチスラヴァの市街が一望できる市内随一の観光名所となっている。城の四隅に配されている塔をテーブルの脚に見立てて、「ひっくり返したテーブル」という愛称を持つ。城内は歴史博物館になっている。
- ミハイル門
- かつて旧市街の入口だった門の一つ。内部は武器博物館となっており、世界各国の剣、槍、大砲などが展示されている。
[編集] 交通
[編集] 姉妹都市
[編集] 外部リンク
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