ファインアート
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ファインアート(fine art, fine arts)は、芸術的価値を専らにする活動や作品を指す概念。 日本語の芸術とほぼ同義であるが、とくに応用芸術、大衆芸術と区別して純粋芸術を意味する場合に使われる。芸術の中でも美術について使われることが多く、この場合、応用美術に対して純粋美術とも。
ファインアートは、ハイカルチャーを構成する一部分である。ハイアート(high art)はファインアートとほぼ同義だが、ファインアートは応用芸術との対比で、ハイアートは大衆芸術との対比で使われることが多い。
代表的なファインアートは絵画、彫刻であり、これに対するイラストやデザイン、工芸と峻別されるが、20世紀最後の四半期以降、その領域は互いに浸透し、区分は曖昧なものになりつつある。
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[編集] ファインアートの誕生
[編集] 実用性からの独立
応用美術や大衆芸術と区別されるファインアートの概念は18世紀後半のヨーロッパにおいて確立した。 その芸術的価値だけではなく、他の実用的価値を持つものを応用芸術、大衆の娯楽のためのものを大衆芸術と呼び、そのいずれにも属せず、芸術的価値を専らにする活動や作品をファインアートと呼ぶようになった。
視覚芸術すなわち美術の分野を例に採れば、これらはもともと建築物や家具、食器、衣服などへの装飾であった。ところが壁画が板絵、タブローとなって壁から離れ、構造物への彫刻も、彫像だけが独立し、もとの建築物との直接の関係がなく制作されるようになり、独自のジャンルとして絵画、彫刻が発展した。 この背景にはテンペラや油彩が発明されるという技術的要素や、絵画、彫刻が商品として売り買いされるという当時の社会経済状況がある。 すなわち装飾性が、他の実用的機能と切り離されて制作されて発展し、装飾性は芸術性に格上げされる。 ここにおいて、他の実用性から独立した芸術的価値という概念が産まれる。 装飾性から芸術性への格上げには作家の個性を重んじる思想がある。実用的機能と切り離されることによって、作家の個性による創造性がもっとも発揮されると考えたものである。
注意すべきは、それがファインアートかどうかは、個々の作品の芸術性がどうかということではない。その作品が属するジャンルによって決定されるということである。
美術の分野で言えば、ファインアートとは、絵画および彫刻である。これらが美術の頂点であって芸術の生産地であり、他の分野はそれを応用したものであるから、応用美術(applied arts)と呼ばれた。 したがって食器はいかに装飾性が高くとも応用美術に属するはずであるが、絵皿や壺など、専ら観賞のために造られたものはファインアートと解されることもあった。染織のうちで絨毯やタピストリーがファインアートとなり得なかったのは、保温という住環境を整える機能があるからかもしれない。しかし宝飾が決してファインアートでなかった理由はよく分からない。また、建築はその実用的機能から応用美術であるはずだが、建築から絵画、彫刻が産まれたという、親子関係が尊重されてか、ファインアートと見なされることも多いようである。
1648年にフランス王立絵画彫刻アカデミーが、1669年に音楽アカデミー、1671年に建築アカデミーができていた。 1816年にこれらを合体したフランス芸術アカデミー(Académie des Beaux-Arts de l'Institut de France)が誕生する。これからファインアート、フランス語でボザール(Beaux-Arts)の概念を窺い知ることができる。
[編集] ハイカルチャーの担い手
ハイカルチャーは大衆芸術(popular arts)あるいは大衆文化、ポップと対立する概念である。 ファインアートはハイカルチャーに属するものとされた。ハイカルチャーは上品な趣味、ポップは大衆の娯楽ということだが、大衆ではない上品な人々とは、貴族だけではなく、このころ力を持ち始めた、都市における裕福な商工業者(ブルジョワジー)と、それを取り巻く知識階層などの人たちであろう。
音楽の場合、ノコギリで演奏するのは別として、作曲はもともと物質に依存していないと考えられたから、純粋音楽と実用音楽のような呼び分けは無く、ハイカルチャーに属するかどうかが分かれ目となる。クラシック音楽がハイカルチャーに属し、対してポピュラー音楽や民族音楽は大衆芸術あるいは芸能である。オペラと後のミュージカルの違いも、おおむねその使用する音楽が、前者がクラシック音楽を用いてハイカルチャーに属するのに対し、後者がポピュラー音楽を用いることによる。
[編集] ファインアートの地域性
ファインアートの概念が産まれた18世紀後半のフランスは、文化史的には新古典主義の時代である。 2度目のルネサンスであり、古代ギリシアを理想、模範とした。
このころまでにヨーロッパ人は、世界中に進出を果たし、それらを知り得ていた。 それゆえ、オリエンタリズム、ジャポニズムが流行したが、これらは「異国」趣味であって、なぜか古代ギリシアだけが故郷である。 パブロ・ピカソがアフリカの仮面に強い影響を受け、1907年『アヴィニョンの娘たち』を描く。アフリカ美術は少なくともそれまでは民俗学の対象であったし、その後ただちにアフリカ美術が見直されたわけではない。 これは新古典主義の思想であって、地理的な問題ではない。ヨーロッパ各地に古くから存在するジプシー(ロマ)音楽も、それに影響を受けてスペインに産まれたフラメンコも、スコットランド伝統のバグパイプも民族音楽(あるいは芸能)だったのである。
[編集] その後のファインアート
ファインアートの概念が確立した時期はイギリスでは産業革命の時期と重なっている。ハイカルチャーの担い手も商業ブルジョワジーから産業ブルジョワジーへと移りゆく時期である。 やがて各国に拡がる産業革命で現れたものは工場での大量生産であった。応用美術の中に工業デザイン(インダストリアルデザイン)が登場する。 大量生産の品に対して手作りの物は工芸(crafts)として、またそれらを超越するものとしてのファインアートも珍重される。
19世紀末になって、工芸の価値を高めるべくイギリスでアーツ・アンド・クラフツ運動が起こる。 これはフランスではアール・ヌーヴォー、アール・デコに引き継がれ、美術と工芸の蜜月が進む。 20世紀初頭、鉄とコンクリートに象徴される工業の発展は、工業デザインや建築も巻き込んで産まれた新しい潮流、モダニズムを産んで、それは美術へも還流する。 1919年ドイツに設立されたバウハウスは建築を中心に美術、工芸、写真、デザインを教えるものであった。
いっぽう、社会の変化を反映してダダイズム運動がファインアートの内部から起こる。 マルセル・デュシャンが1917年にニューヨークの「アンデパンダン展」に偽名で男性用小便器をほとんど加工なく『泉』と題して出展した事件が有名である。 これは反芸術ともいわれるが、既存の常識を越えてファインアートの陣地を広げたものとも解釈できる。
音楽においてこれと似た画期は、1952年にジョン・ケージによる終始無音の『4分33秒』が「演奏」されたことであろう。 これはダダイズムの時期ではなく、第2波のネオダダとリンクしている。
20世紀後半になって、とくにアメリカ合衆国の経済的繁栄、大量消費社会を背景に大衆文化が盛んになると、それを取り入れたポップアート(アメリカン・ポップ)が登場する。 1950年代にジャスパー・ジョーンズは星条旗を油彩で描き、 ロイ・リキテンスタインは1960年代に、新聞の連載漫画の1コマを、印刷インクのドットまで含めてキャンヴァスに拡大して描いた。 アンディー・ウォーホルは同じころ、シルクスクリーンによる版画を好み、マリリン・モンローの顔写真などを題材にした。 1939年に論文『アヴァンギャルドとキッチュ』でファインアートの「大衆化」に抵抗し、モダニズムの理論的支柱であったアメリカ合衆国の美術評論家クレメント・グリーンバーグは、最後までポップアートを批判していたが、ポップアートが当時アメリカ文化の旗手であったことは否めない。
「モダニズムの終焉」が唱えられる1970年代後半以降、ファインアートの陣地はいっぽうで拡がりつつも、いっぽうでは危うくなっている。 現代では版画や写真、映像もファインアートの一分野と認識されるようになっている。また、ニューヨーク近代美術館やフランス国立近代美術館が工業デザインも扱うなどの動きがある。 1864年に設立された、オーストリア王立美術工業博物館は、1986年に応用美術と現代美術を共に扱うMAK(Osterreichisches Museum für Angewandte Kunst、オーストリア国立工芸美術館)として再出発した。
[編集] 日本の事情
[編集] ファインアートの到来
日本には開国後の明治時代に、さまざまな西洋文化がいちどに入ってきた。 リベラル・アートが西周 (啓蒙家)によって「芸術」と翻訳された(1870年の『百学連環』?)。 1873年(明治6年)、当時の日本政府がウィーン万国博覧会へ参加するに当たり、出品する品物の区分名称として、ドイツ語の Kunstgewerbe および Bildende Kunst の訳語として「美術」を採用した。また、西は1872年(1878年説もあり)『美妙学説』で英語のファインアート(fine arts)を「美術」と翻訳した。 その後「美術」は、ファインアートのうち視覚芸術に限定して使われ、これからはみだした、詩、音楽、演劇なども含むファインアートに相当する日本語としては「芸術」が使われるようになった。
ファインアートは18世紀のヨーロッパで確立したものなので、他地域たとえば日本や、時代を越えて適用するには問題がある。 たとえば東洋美術では書画として書も美術品のひとつと扱われるが、書は欧米の言うファインアートにはあたらない。 そもそも、東洋には実用品から遊離した美術品と言えるものはほとんどない。絵巻物は西洋の挿絵に相当し、障壁画や屏風絵は家具の一部なので、西洋の定義ならほとんどが応用美術、工芸に属する。 けっきょくウィーン万国博覧会へは、絵付けされた陶磁器を主力に出品した。 工芸かファインアートか、その狭間を狙ったことになる。 ファインアートたる美術と、応用美術たる工芸の区分を明治の日本は認識することになるが、上記の事情から、日本では美術と工芸を纏めて扱うことが多くなる。 ファインアートと応用美術との峻別は日本にとって不利になるのである。
[編集] 日本のファインアート
出発点において、日本にファインアートらしきものはほとんど無かった。そこでたとえば西洋画(油彩画)を学ぼうとするが、それとは別に全くの輸入ではなく日本の伝統に接ぎ木するべく、日本画が誕生する。 しかし、それが西洋にも通用したかどうか、日本画がファインアートの一分野と認識されたどうかはは疑問である。 欧米の美術館に日本画が収蔵されるのは、ボストン美術館など、ごく一部の例しかない。
江戸時代末期の1867年のパリ万国博覧会(第2回)へ幕府、薩摩藩、佐賀藩が出展する前後にフランスを中心に日本趣味、いわゆるジャポニズムが流行する。とりわけ日本の浮世絵が印象派の画家たちに大きい影響を与えたことはよく知られている。アメリカ合衆国のボストン美術館やフランス国立ギメ東洋美術館が日本の美術を数多くコレクションしていることで知られる。 しかし、それらが日本のファインアートとして彼らが認識しているのかは怪しいものがある。 彼らがコレクションする仏教美術は彼らの宗教画や彫刻に等しいものと考えられているかもしれないが、日本刀や甲冑は明らかに応用美術であり、浮世絵は版画である。葛飾北斎は偉大な芸術家にして画家。しかし東洲斎写楽は肉筆画が残らないために、偉大な版画家である。 浮世絵の高い芸術性が認められていることはたぶん事実だし、その影響を受けた印象派の油彩画がファインアートであることは疑いない。 それと日本の浮世絵がファインアートと認識されているかどうかは別問題である。 たぶん日本の浮世絵をもっとも収蔵しているのはオランダ国立ライデン民族学博物館である。 ここでは浮世絵は日本の民俗資料として収集されている。 浮世絵のうちの春画がとくに海外で注目されているのは、彼らの好色ではなく、大衆芸術たるポルノ絵が、日本の春画では極めて芸術性を備えているという驚きによるものかもしれない。
もちろん日本にもファインアートは存在するのだが、ファインアートかどうかの間尺に依らなくとも、日本の美術、文化は海外でそこそこの評価を受けてきた。それが日本においてファインアートという概念が、あまり重要視されて来なかった理由のひとつであろうか。
ファインアートの訳語は芸術、あるいは美術である。 これに対しカタカナの「アート」という言葉が、とくに最近使われる。 「アート」は狭い意味ではファインアート、芸術、美術を意味するが、広い意味では応用芸術や大衆芸術も含む。 日本で「アーティスト」とまっさきに呼ばれるのは、ポピュラー・ミュージシャンである。 欧米でイメージされる代表的な日本文化とは、あるときはゲイシャ、サムライ、ニンジャであり、今日はマンガ、ファッションなどであろう。建築はそこそこだが、それ以外に日本のファインアートはあまり見えない。
日本の美術にもダダイズムの影響はあったし、一部にアメリカン・ポップの影響は受けている。欧米において近年ファインアートの概念が揺らいでいることも芸術家たちは知っている。
2000年、水戸芸術館は『BIT GENERATION 2000 テレビゲーム展』を開催した。 2004年のヴェネツィア建築ビエンナーレで日本は『OTAKU』と題し、秋葉原のフィギュア・ショップを再現させ、日本の「おたく文化」を紹介した。 2005年の横浜トリエンナーレのテーマは『アートサーカス』、すなわちファインアートと、大衆芸術であるサーカスとを合体させた言葉である。 明治時代の日本が美術と工芸をいっしょにしなければならなかったように、今日もファインアートと大衆芸術の輻輳を日本は企図しなければならないのかもしれない。