ハイカルチャー
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ハイカルチャー(High culture)とは、学問、文学、美術、音楽など人類が生んだ文化のうち、高い達成度を示していると考えられたもの。上位文化などと訳されることもある。または「文化」という言葉がもっぱらハイカルチャーを指すことがある。大衆文化、サブカルチャーなどに対比される言葉。
ハイカルチャーは(主に19世紀までの間にヨーロッパを中心に形成された)貴族やブルジョワ階級のものであり、知識・教養を持つ少数の者が享受する文化であった。しかし20世紀の大衆文化の時代になると、少数者がハイカルチャーを独占するものではなくなり、古典絵画やクラシック音楽も一般に鑑賞されるようになった。
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[編集] ハイカルチャーの例
[編集] ハイカルチャーの受容
従来ハイカルチャーとされたものは、古典古代 - ルネサンス期を経て正統な文化と考えられたものであったが、主としてヨーロッパのエリート男性が担ってきたものである。ヨーロッパ中心、エリート中心、男性中心の文化であり、今日ではその文化のあり方が様々な立場から批判を受ける場合もある。ハイカルチャーとそれ以外の文化との区別は、社会の支配層が自らの所属する階層・集団が持つ文化を一段高いものとし、それ以外の文化を価値の低いものとする意識が生んだものであるとも考えられる。
日本の伝統的な(近代以前の)文化体系では朱子学を正統とする漢学、源氏物語などの古典文学、和歌、仏教美術、狩野派の絵画、能、狂言、茶道などがハイカルチャーに相当する(心学、戯作、俳諧、狂歌、浮世絵、歌舞伎、落語などは大衆文化に相当するであろう)。
明治以後、西欧の輸入という形で進められた日本のハイカルチャー受容は、形態にほとんど変わりはない。
- 音楽の事例
かつて松平頼則はイタリアの大作曲家ゴッフレド・ペトラッシと親しい仲であった。しかし、両者のオーケストラ作品は当時はおろか現在でも演奏される打率はほとんどない。これは、世界最強の密度で勝負する海外のクリエイターは、リアルタイムで日本人に消化されることは出来ないという、簡単な事例の一つである。現在も、史上最年少でルトスワフスキ作曲賞を受賞するような天才の出現は枚挙に暇がないはずである。しかし、このような天才とリアルタイムで接触する日本人の数は片手で数えるくらいであろう。
今後も日本人のハイカルチャー受容は、数十年のタイムラグを経て大衆に落下する形態をとることは間違いがない。かつてマーラー、ショスタコーヴィチ、ラヴェルの管弦楽曲は日本のオーケストラで消化することが困難な曲目であったが、現在は涼宮ハルヒの憂鬱のように深夜アニメのサウンドトラックに使われて好評を博し、アマチュアオーケストラの演目にも好んで取り上げられている。
[編集] 類語
社会の支配的な文化という意味でメインカルチャーという言葉が使われることがある。対比される語としては、次のようになる。