ヒカルイマイ
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性別 | 牡 |
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毛色 | 黒鹿毛 |
品種 | サラブレッド系種 |
生誕 | 1968年3月27日 |
死没 | 1992年7月21日 |
父 | シプリアニ |
母 | セイシユン |
生産 | 中田次作 |
生国 | 日本(北海道静内町) |
馬主 | 岸根蔵之助氏 →鞆岡達雄氏 →有限会社西山倶楽部 |
調教師 | 谷八郎(栗東) |
競走成績 | 15戦7勝 |
獲得賞金 | 9076万700円 |
ヒカルイマイは日本の競走馬である。後方一気の戦法で皐月賞、東京優駿(日本ダービー)の栄冠を勝ち取ったクラシック二冠馬であり、15戦7勝の戦績を残した。1971年の最優秀4歳牡馬。主戦騎手は田島良保。二冠獲得後、菊花賞目前で屈腱炎を発症し2年休養後そのまま引退。
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[編集] 出自
ヒカルイマイの血統をたどっていくと母系にミラという血統証のない牝馬に辿り着く。これゆえにヒカルイマイはすべての血統が証明されているサラブレッドではなく、サラ系として生きていくことになる。血統が災いしたか買い手が全く付かなかったが、廃馬寸前のところに買い手の鞆岡達雄氏が現れ、150万円という安価で買い取られることとなった。
この取引についてはエピソードがあり、牧場側は当初200万円という価格を提示したが、ヒカルイマイは肋骨が生まれつき一本欠けており、鞆岡氏は「肋骨一本分」として50万円値引きした金額を提示した。結局この金額で取引が成立したが、差額の50万円はヒカルイマイがダービーを制した後、改めて支払われたという。
[編集] 戦績
雑草のような生い立ちのヒカルイマイではあったが、新馬戦では見事5馬身差の1着。その後も2連勝、京都3歳ステークス、オープン競走はともに2着とし、優秀な成績を収め3歳時を終える。明けて4歳になったヒカルイマイは3戦目のきさらぎ賞で9頭立ての7番人気ながら見事重賞初勝利を収める。皐月賞前哨戦となるスプリングステークスではメジロゲッコウの前に4着と敗れるが、4番人気に支持された本番の皐月賞では後方一気の豪快な競馬で快勝。NHK杯(現廃止・芝2000m)でも豪快な追い込みでダコタを首差差し切り、東京優駿に臨む。東京優駿では空前絶後の追い込みを見せて見事二冠の栄冠を勝ち取る。
3ヶ月休養後は緒戦を3着、菊花賞トライアル競走京都新聞杯では9着に敗れ、その後は菊花賞を目標に調整されていたが削蹄ミスにより屈腱炎を発症、休養に入る。その後、復活の噂が流れるも、その頃にはダービー後からチラホラとは聞かれていた馬主の名義貸し疑惑などが、マスコミ記者などの間で頻繁に噂される様になっており、それらの影響もあったか復帰という話も延び延びになってゆく。最終的には2年間の休養後、脚元が回復しないという事で引退。
[編集] レース振り
後方一気の風雲児と称され主導権を掌握できない追い込みという戦法ながらも、15戦7勝2着3回3着1回という安定した成績を残した名馬であった。追い込みを主な戦法とした理由は、ヒカルイマイが激しい気性のせいで、馬群に揉まれて走ると途端に走る気を無くすためであったことが、ずっと後に明らかになるが(スプリングステークスの敗戦も、実は鞍上の田島が先行の競馬を試したことに対し馬が反発したことが敗因だったという)、そんなことを微塵も感じさせない圧倒的な勝ち方がファンを魅了した。日本競馬史上で皐月賞、NHK杯、東京優駿を3連勝した競走馬は、ヒカルイマイを含めてわずか3頭(他にボストニアン、カブラヤオー)しか存在しない。
[編集] 引退後
種牡馬としては残念ながら成功を収めることが出来ず、廃用になってしまい余生が危ぶまれた時期もあったが、谷八郎調教師の計らいで鹿児島にある服部牧場で余生を過ごした。畜産牧場を兼ねていたいう事もありヒカルイマイの行く末を心配した熱烈なファン達による「ヒカルイマイの会」が結成され、年に数回飼葉代として牧場に仕送りしていたという。1992年7月21日心臓麻痺のため服部牧場で死亡。同会による飼葉代の余剰金は、ヒカルイマイの墓碑建設費に当てられた。
[編集] 伝説の日本ダービー
第38回東京優駿は1971年6月13日に東京競馬場で開催された。現在では馬券発売のシステム上不可能な28頭立ての多頭数である。皐月賞、NHK杯と2連勝中のヒカルイマイは、サラ系という血統と最後方一気の極端な追い込みという脚質が影響したか、NHK杯2着のダコタに1番人気を譲り2番人気となる。ただし、ダコタも1番人気といえ単勝オッズは4.7倍と、決して絶対的な本命視をされていたわけではなく、いわゆる戦国ダービーの様相を呈していた。
ヒカルイマイに騎乗するのは若干23歳の田島良保騎手(現・調教師)。当時、競馬サークル内にはダービーポジション(1コーナーで10番手以内に位置取りしないと勝てない)という格言が存在していたが、ダービーでも田島とヒカルイマイはその格言を無視するかのような位置取り。3コーナーを回ってもヒカルイマイはまだ27番手と絶望的な位置にいた。しかし彼らにとってはいつものレース展開と同様であった。
4コーナーでもヒカルイマイはまだ先行集団からはるか後方の27番手の位置取りでいよいよ最後の直線500mに入る。このダービーは比較的スローなペースで流れており、逃げた関西馬のシバクサがバテた所を2番手に付けていた藤本勝彦騎乗のハーバーローヤルが交わして先頭に立ち、そのまま流れ込みを狙った。一方、人気のダコタは馬群の中でもがいており、この時、実況アナウンサーが「ダコタはどこだ!?」という有名な言葉を残している。
この4コーナーでヒカルイマイを上手く外に持ち出した田島は、ここから空前絶後の追い込みを開始する。大外からヒカルイマイは驚愕すべき末脚を発揮。それは田島をして「他馬が止まっているように見えた」と言わしめたほどである。残り100mの地点まで先頭を走っていたハーバーローヤルを並ぶ間もなく交わすとそのまま1馬身1/4差をつけて二冠目の栄光を勝ち取った。直線だけで26頭をごぼう抜きした瞬間であった。
田島はレース前から自身の騎乗さえ誤りが無ければ必ず勝てると確信していた。そしてレース後に「ダービーに乗ったのではなく、ヒカルイマイに乗ったのだ」という名言を残した。田島は戦後の競馬においては最年少(23歳)で日本ダービー初制覇。この記録は30年以上を経た現在でも破られていない(これに次ぐのが、大崎昭一と藤田伸二の24歳)。
直線だけで20頭以上もごぼう抜きしたレースは存在しておらず、現在では馬券発売のシステムの関係上、フルゲートでも18頭で行われるため、これからもこの空前絶後の追い込みは再現されることはないだろう。もっとも、最近ではこの頭数制限ゆえに最後の直線での追い込み勝負で日本ダービーを勝利する馬もおり、アグネスフライトやジャングルポケットはこの戦法で日本ダービーを制した。
[編集] 主な勝ち鞍
- 東京優駿
- 皐月賞
- NHK杯
- きさらぎ賞
[編集] 血統表
ヒカルイマイの血統 (ナスルーラ系/Man o'War5×4=9.38%) | |||
父
*シプリアニ Cipriani 1958 黒鹿毛 |
Never Say Die 1951 栗毛 |
Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | |||
Singing Grass | War Admiral | ||
Boreale | |||
Carezza 1953 鹿毛 |
Rockefella | Hyperion | |
Rockfel | |||
Canzonetta | Turkhan | ||
Madrigal | |||
母
(サラ系) セイシユン 1954 栗毛 |
*ヴィノーピュロー Vino Puro1934 栗毛 |
Polemarch | The Tetrarch |
Pomace | |||
Vainilla | San Jorge | ||
Verona | |||
(サラ系) 安俊 1939 栗毛 |
月友 | Man o'War | |
*星友 | |||
(サラ系) 竜玉 |
*チャペルブラムプトン | ||
(サラ系)第三ミラ (ntbミラ牝系) |