バルト・ドイツ人
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バルト・ドイツ人(ドイツ語:Deutsch-Balten)とはバルト海南岸の現エストニア、ラトヴィアに植民したドイツ人のことである。
中世にまではドイツ人の居住地は、エルベ川西岸まで広がっていた。13世紀頃からドイツ騎士団やリヴォニア帯剣騎士団によるキリスト教化の進展に従い、ドイツ人は東方植民を始め、ベルリンのあるシュプレー川流域からプルセン人やスラブ人やフィン・ウゴル族の居住するヴァイクセル川、メーメル川流域へ移住した。結果、ドイツ人はバルト地方にリガ、タリン、プロイセン地方にダンツィヒ、ケーニヒスべルクなどの港湾都市を建設し、これらの町はハンザ同盟に加盟し大いに繁栄した。
ドイツ騎士団国家は1525年にポーランド王国のズィグムント1世の宗主権を認めプロイセン公国となり、1701年ブランデンブルク辺境伯のホーエンツォレルン家が神聖ローマ帝国皇帝からプロイセンの王権を認められた。その一方で、タリンやリガはスウェーデン王国やロシア帝国の版図に組み入れられた。特にスウェーデン支配地では、17世紀を通じてスウェーデン絶対主義に支えられ、教育の推進、農民の解放、衰退期のハンザ同盟に代わるバルト海貿易による商業活動によって、バルト地方の繁栄の時代をもたらした。その主役は、バルト・ドイツ人であった。特にリガは、スウェーデン第二の都市とまで呼ばれ、その公用語はドイツ語であった。この時代は、現地人に「幸福なスウェーデン時代」と呼称され、リガ、タリン、ナルヴァなどの都市が発展して行った。18世紀までにロシア帝国に組み込まれた場所でも、バルト・ドイツ人による直接支配は保たれた。新たな支配者ロシア帝国もまた、バルト・ドイツ人を重用した。そしてこの時代のドイツ人によって行われた啓蒙運動によって、エストニア人やラトヴィア人の民族覚醒が起きている。
19世紀のナポレオン戦争の後、ドイツ民族意識の高揚とともに「ドイツ語響く所ドイツであれ」と謳われ「ドイツの国歌」にメーメル川までドイツと歌われている(ゲルマニズム)。
1871年のドイツ帝国成立においてはバルト海沿岸の「バルト・ドイツ」も帝国領とされた。しかし、第一次世界大戦に敗戦しポーランドが独立するとポーランド回廊によって、東プロイセンが飛び地となり、それを原因に第二次世界大戦が勃発する。
第二次世界大戦後はヤルタ会談の取り決めによってケーニヒスべルクはカリーニングラードと改名され、ソ連に編入され、さらにポーランドは国境線を西にずらし、ダンツィヒ(グダニスク)をふくむプロイセンがポーランド領とされ、ドイツ国境はオーデル・ナイセ線へ西方向に後退した。
結果、バルト・ドイツ人は悉く、オーデル川の西に追放された(ドイツ人追放)。
現在のドイツの領土は東方植民運動が始まる前の状況に戻ったといわれる。
[編集] 主なバルト・ドイツ人
- ピョートル・ヴラーンゲリ:ロシア帝国の軍人、白軍(白衛軍)の司令官。ロシア貴族ヴラーンゲリ家の出身。
- イマヌエル・カント:哲学者、生涯をケーニヒスベルクですごす。
- エストニア人の一覧、ラトビア人の一覧、Notable Baltic Germans を参照
[編集] 外部リンク
- A Baltic German site.
- The association of German Baltic Nobility (rulers of Estland, Livland and Kurland between 1252 and 1918) - also see English language version
[編集] 関連項目
- Category:Baltic Germans
- ドイツ植民、東方植民
- エストニアの歴史
- ラトビアの歴史
- 東プロイセン、ヴァルミア・マズールィ県
- エルムラント
- バルト三国
- バルト帝国
- リヴォニア
- リヴォニア戦争
- クールラント
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