バヤン (バアリン部)
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バヤン(Bayan, 1236年 - 1294年)は、モンゴル帝国の将軍で、元を開いた大ハーン、クビライの重臣。漢字表記は伯顔。元が南宋を併合したとき、南宋討伐軍の総司令官として活躍した。
バヤンの家は曽祖父の代にチンギス・ハーンに仕えて左翼(東部)の千人隊長(千戸長)となったモンゴル貴族で、父シャオクタイは1253年に始まるフレグの西方遠征に参加した。バヤンも父とともにフレグの軍に従い、のちに若くしてイランに建設されたフレグ家のウルス(イルハン朝)の将軍となった。その後、1264年に使者としてイルハン朝から中国の大ハーンのもとに送られたとき、バヤンを接見したクビライはその容貌がすばらしく才幹に優れていることを知り、そのまま引きとめて自身の部下とした。クビライはバヤンを、側近の中書右丞相アントンの妹と結婚させ、1265年にクビライの政府の中枢機関である中書省においてアントンの次席の位である中書左丞相に任命した。
1274年、前年に南宋の北方の守りの拠点として長らく抵抗を続けてきた襄陽の呂文煥が降伏したのをきっかけに南宋本土への大規模な侵攻が組織されると、バヤンは南宋討伐の総司令官を任ぜられ、荊湖(湖北)の行省を任せられて河南地方一帯の政軍の全権を委ねられた。バヤンは自ら中軍を率い、襄陽から漢水に沿って南下を続け、漢口(武漢)で長江に至った。元軍はここで南宋の艦隊と対峙して渡河を阻まれたが、3000人の騎兵を上流からひそかに渡河させ、挟撃を恐れて浮き足だった南宋の艦隊を敗走させた。こうしてバヤン率いる元軍の本隊はほとんど手間取ることなく長江を渡ることに成功し、さらに呂文煥を説得の使者に送り出してこの地点の南岸に位置する都市、鄂州(武昌)を降伏させた。
バヤンは出撃に先立って、クビライからむやみに敵を殺害することを避け、できるだけ無傷で降伏させていくよう指示されていたため、いずれの戦いでも降伏した者を寛大に扱い、抵抗を諦めても降伏を潔しとせずに自殺した者がいれば丁重に葬った。このためもあって、南宋の諸軍は圧倒的な勢いの元軍に抵抗する意欲を失い、長江に沿って南宋の首都臨安に向かって進むバヤンの軍に降伏していった。1275年、宋の宰相賈似道は、歳幣(毎年の貢納)を条件に元に占領された領土の返還を要求したが、バヤンは拒否した。賈似道は13万の兵をもって出撃したが、戦意を失っていた宋軍は元軍の騎兵の突撃と砲撃によってたちまち崩壊し、南宋の最後の抵抗もあっけなく壊滅した。
同年3月に南宋の中心である江東(江蘇省)に入った元軍は、ここでいったん留まって占領地の安定に務め、11月になって臨安への進攻を開始した。元軍は常州、無錫、湖州をつぎつぎに降して南下を続け、1276年1月18日、ついに臨安はバヤンの前に無血開城して南宋は滅んだ。こうしてバヤンはほとんど損害を受けることなく豊かな南宋の領土を元に併合することに成功し、クビライの期待に応えた。
南宋の併合により元は中国全土を統一して勢力を高めたが、同年夏にはモンゴル高原(モンゴリア)の西部から中央アジアの方面でオゴデイ家のカイドゥと戦っていたクビライの子ノムガンと側近の右丞相アントンが、クビライの兄モンケと弟アリクブケの遺児らが起こした反乱によって捕虜となり、元の勢力が中央アジアから一挙に後退させられる事態が起こる。クビライは、彼らによって王朝発祥の地であり最良の遊牧地であるモンゴル高原を制圧されることを怖れ、ノムガン・アントンに代わるモンゴリア駐屯軍として南宋討伐から帰還したばかりのバヤン率いる精鋭を送り込んだ。この戦役でもバヤンはクビライの期待に十二分に応え、カラコルム近郊で反乱の盟主シリギの軍を破って逆にモンゴル高原の大半を元の勢力圏に取り戻す戦果をあげた。さらに、アルタイ山脈のあたりまで勢力を広げていたカイドゥを牽制するため、モンゴル高原での駐屯を続ける。
しかし、1287年のナヤンの反乱をきっかけとして、1289年にはハンガイ山脈を越えて中央モンゴリアに入ったカイドゥによりモンゴリア方面の領主である晋王カマラの軍が破られるなど、この方面の戦線は次第に元側が劣勢になってきた。そこで1293年、クビライは大ハーン直属の精鋭を付属させた皇太孫のテムルをモンゴリア駐屯軍の指揮官に据えてカイドゥにあたらせることにし、バヤンを召還した。
バヤンが大都に帰還してまもない翌1294年1月にクビライは死去し、後継者にはバヤンを筆頭とするモンゴリア駐屯軍を後ろ盾としたテムルが即位する。バヤンはテムル政権の重臣筆頭として開府儀同三司、太傅、録軍国重事の称号を与えられ、年若い新ハーンを支えたが、同年12月に急逝した。
モンゴル語で「富裕な者」を意味するバヤンという名前の発音は中国語の「百眼」に通ずるため、『東方見聞録』においては「百の眼の怪物が南宋を滅ぼした」という話になって伝わっている。