モンケ
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モンケ(Möngke, 1208年 - 1259年 在位1251年 - 1259年)は、モンゴル帝国の第四代大ハーン。漢字表記は蒙哥で、ペルシア語表記では منگو قاآنmankū qā'ānまたはmūngke qā'ān مونگكه قاآن。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓肅皇帝。チンギス・ハーンの四男トルイとその夫人ソルカクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。
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[編集] 生涯
[編集] 即位以前
若い頃から資質に優れ、父のトルイと共に金の名将である完顔陳和尚を三峯山の戦いで破って大勝を収めた。1232年、父の死によりトルイ家の当主となる。
第2代ハーン・オゴデイのもとでヨーロッパ遠征が始まると、モンケは遠征軍の総司令官となったバトゥに従ってキエフ攻略で戦功を挙げた。もともと、祖父チンギス・ハーンの死後は、末子相続に従ってトルイがハーンになるはずであったが、トルイが固辞したため、その息子であるモンケを新たなハーンとして擁立する約束があった。その約束もあり、さらに智勇兼備の名将であったことから、周囲からもオゴデイの後を継ぐハーンに望まれた。
[編集] 諸王家間の対立とモンケ推戴にいたる経過
1241年、オゴデイが死去したため、本来ならばモンケが後を継ぐはずであったが、オゴデイの皇后であったドレゲネの政治工作でオゴデイとドレゲネの間に生まれた長男のグユクが後を継ぐこととなってしまった。モンケはこれに不満を持ったが、ドレゲネ生存中は雌伏し、同じくグユクの即位に不満を持つジョチ家のバトゥと手を結んだ。
そして1246年、ドレゲネが死去し、その2年後の1248年にグユクも死ぬと、バトゥの支持を受けて強行的にクリルタイを開催して第4代ハーンに即位したのである。このとき、後々の害になるとして先帝グユクの皇后として隠然たる影響力を持っていたオグルガイミシュ、さらにはシラムン、イェス・モンケなどオゴデイ家やチャガタイ家の反対派を処刑、粛清するという冷酷さを見せた。
[編集] モンケの施政から晩年
その後はハーンとしての地位と支配力を固めるべく、河北やトルキスタンなどに行政府を設置するとともに、官僚のヤラワチ・マスウード・ベク父子を重用して財政政策に重点を置き、財政を潤わせた。さらに次弟であるクビライを漠南漢地大総督に任じて南宋攻略を、三弟のフレグを征西方面軍の総司令官に任じてイラン方面を侵略させた。1258年にはアッバース朝を滅ぼしている。
しかし、晩年のモンケは有能な次弟、クビライの存在を恐れて、これを一時的に更迭するなどの猜疑心深い一面があった。このためもあって南宋攻略は遅れ、これに苛立ったモンケは1258年、自分自身の実力に恃んで自ら軍を率いて四川方面から南宋攻略を目指し、帝国諸軍に先行、突出して侵攻したが、その途上で軍陣内で流行した悪疫にかかって死去した。これには、クビライ派による毒殺説も囁かれている。
[編集] 人物
モンケはハーンとしては有能な人物であり、その卓越した指導力と冷酷非情で厳格な一面により、オゴデイ死後から分裂傾向を見せていたモンゴル帝国の引き締めに成功している。しかし、西方の文明にも通じていたこともあって中華文明を相対的に低く評価し、漢人を重用しなかったこと、自らの軍事的才能や政治的統率力に恃みすぎてモンゴル共同体の和をないがしろにする独断専行が多かったこと、そしてこれらの背景もあって自身の即位の反対派であるチャガタイ家やオゴデイ家に対して厳しい処置をとり、晩年には実弟のクビライを使いこなせなかったことが、モンケ死後のモンゴル帝国結束を揺るがす内紛につながったのである。
また、モンケは剛毅な性格で奢侈を好まず、シャーマン信仰に篤いモンゴル人である一方、学術教養にも深い理解を示し、数ヶ国語に通じていたうえ、ユークリッド幾何学など東西の学術文化に造詣が深かった。
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