テムル
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テムル(Temür, 1265年 - 1307年)は、モンゴル帝国(元)の第6代大ハーン(在位1294年 - 1307年)。漢字表記は鉄穆耳。廟号は成宗、諡は欽明広孝皇帝。モンゴル語の尊号はオルジェイトゥ・カアン(オルジェイト・ハーン)。
世祖クビライの次男チンキムの三男。父がコンギラト氏出身の正夫人ココジンとの間に設けた3人の嫡子のうちの末子にあたる。父で皇太子のチンキム、祖父クビライに寵愛されていた次兄ダルマバラが相次いで早世したため、クビライの晩年にその後継者の最有力候補となった。
1293年、モンゴル高原に駐留して中央アジアのカイドゥの侵攻に備えていた将軍バヤンがクビライに召還されると、代わりにモンゴル高原駐留軍の司令官に任命され、皇太子の印璽を授けられた。翌年クビライが没すると上都でクリルタイ(集会)が開かれ後継者が議されたが、監国として後継者選定を主導する母ココジンや、知枢密院事として軍事権を掌握していたバヤンは一致してクビライによって皇太子に指名されていたテムルを推し、テムルが長兄カマラを抑えてハーンに即位した。
テムルが即位すると高原に対するカイドゥの侵攻はますます強まったので、テムルは兄の晋王カマラに加えて従兄弟の安西王アナンダを始めとする大軍を高原に送り込んだ。これにもかかわらず元軍はカイドゥの軍に敗戦を重ねたが、次第にカイドゥ勢力の行く末を見限った高原西部の王族・貴族が元に投降し始めた。これに対して焦りを深めたカイドゥは1301年、配下のオゴデイ家とチャガタイ家の諸王のことごとくを動員し、全力をあげて高原に侵攻した。テムルは甥のカイシャンらを追加派遣してこれにあたり、元軍はカラコルムとタミールで行われた2度の戦いでカイドゥ軍を大いに破った。カイドゥは戦傷がもとでまもなく没し、これを機にチャガタイ家の当主ドゥアはオゴデイ家を継いだカイドゥの息子チャパルを説得してテムルに服属を申し出た。1305年、テムルはテムルとチャパルの服従を承認し、クビライ即位時の内乱(アリクブケの乱)以来分裂状態にあったモンゴル帝国に45年ぶりの平和統合がもたらされる。
テムルの政権では、オゴデイからクビライまで4代にわたって中国の行政に活躍したムスリム(イスラム教徒)官僚サイイド・アジャッルの孫バヤン(モンゴル人の将軍バヤンとは別人)が中書平章政事に任命され、中書省に集められたムスリム財務官僚たちがバヤンを首席とする財務部局を構成してクビライの財政制度を踏襲した。テムルの後ろ盾であった将軍バヤンはテムルの即位後まもなくに亡くなったが、父チンキムの莫大な遺産を管理する母ココジンがテムルをよく支えた。
テムルは飲酒と荒淫の悪癖があったので次第に病気がちとなり、チャパルらとの和平を受け入れた頃にはほとんど病床について政務をとることができなくなっていた。宮廷では、1300年にココジンが亡くなってからはテムルの皇后ブルガンが勢力を持ち、テムルの代理として政務を取り仕切って権勢を振るった。1307年にテムルが没すると、ブルガンとその反対派の間で政変が起こることになる。
先代 |
1294年 - 1307年 |
次代 |
クビライ | カイシャン |