トゥンク・アブドゥル・ラーマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トゥンク・アブドゥル・ラーマン(Tunku Abdul Rahman Putra Al-Haj ibni Almarhum Sultan Abdul Hamid Shah、1903年2月8日 - 1990年12月6日)は、「マレーシア独立の父」であり、1955年に結成されたマラヤ連邦の首相である。その後、1957年に、マラヤ連邦がマレーシアに発展解消、独立した際に、初代首相に就任した。彼は、サバ州、サラワク州、シンガポールを1963年に、マレーシアに編入させることに成功している。
目次 |
[編集] 生い立ち
アブドゥル・ラーマンは、第24代クダー王国スルタンであるアブドゥル・ハミド・ハリムの20人兄弟の第14子である。クダー州の州都アロースターで生まれている。
彼自身は、6歳のときに初等教育を受け始め、後に、現在、アロースターにあるアブドゥル・ハミド大学になっている英語学校に進学した。8歳のときに、彼は、他の3人の兄弟とともに、バンコクに留学している。1915年、彼は帰国し、ペナンで勉学を続けた。
1918年、クダー州の奨学金を取得し、ケンブリッジ大学聖キャサリン校に留学していた。1925年、学士を取得しているが、ラーマン自身がクダー州奨学金取得者の中で、初めて、イギリスに留学した学生である。
帰国後、ラーマンは、クダー州の公務員として働いている。その後、彼は、再び、イギリスへ留学し、法学を修学しようとしたが、1938年にあきらめ帰国している。その理由は、第二次世界大戦の勃発である。1947年から、再度留学し、弁護士の資格を得ている。
[編集] 経歴
1949年にイギリスから帰国すると、アロースターにある法律事務所で勤務していたが、その後、クアラルンプールへ異動を依頼している。
この時代は、マラヤ全域でナショナリズムが高揚しており、ダトー・オンがUMNOを指導していた。彼はUMNOに参加し、1951年にはUMNO内部の路線対立により、ダトー・オンをUMNOから追放し、UMNOの党首に就任した。
[編集] マレーシア独立
1954年、ロンドにマラヤ独立のための使節団を派遣するが果実は実らなかった。1955年総選挙(マレーシア憲政史上初めての総選挙)において、UMNOは、MCAと連携することで、52議席中51議席をこの3党で独占する圧倒的な勝利を収める。1956年には、インド系住民を代表するMICもこのアライアンスに参加した。
1955年後半には、再度、マラヤ独立のための使節団をイギリスに派遣し、1957年8月31日がマラヤ連邦独立の日と決定した。独立記念日には、クアラルンプールに掲揚されていたイギリス国旗が降ろされ、ラーマンは、自由と叫ぶ群集を率いた。手を挙げるラーマンの写真と彼の感傷的ではあるが彼の群衆の歓声を呼ぶ決意を込めた音声の記録は、マレー独立の象徴となった。
[編集] 首相時代
ラーマンは、1963年にマレーシアと改編された後も首相としてマレーシア政治をリードした。1959年総選挙・1964年総選挙でもUMNOを中心としたアライアンスは、勝利を収めている。
マレーシア結成は、ラーマンの最大なる達成である。1961年には、シンガポールで講演した際には、サバ、サラワク、シンガポール、ブルネイを含めたマレーシアを提唱している。1963年には、ブルネイを除いた前述の地域によってマレーシアが誕生し、引き続き、マレーシアの舵取りを任せられた。
しかしながら、民族間の対立は、シンガポールのマレーシア参加で明らかになってくる。というのも、シンガポールと半島部マレーシアでは民族構成が大きく異なる。全人口の約6割をマレー人が占めるマレーシアに対して、シンガポールは、人口の大多数を華人系が占めているからである。UMNOとMCAは、1964年総選挙でリー・クアンユー率いる人民行動党(PAP)の動向に神経質になっていた。1964年総選挙では、PAPが議席を1議席しか獲得できなかったものの、その翌年には、シンガポールをマレーシアから追放した(シンガポールの視点から見れば、望んでいなかった独立である)。
ラーマンは、東南アジア諸国との外交に大きな役割を果たし、1967年には、タイ、フィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシアの5国によるASEAN結成を実現させた。
1969年総選挙で、UMNOを中心とするアライアンスは大きく議席数を減らし、その直後勃発した5月13日事件を契機に、ラーマンは、UMNOの「ウルトラ(後に首相となるマハティールも含まれている)」と呼ばれる次世代の指導者層に大きく非難を浴びた。マハティールは、ラーマンに対して首相の辞任を突きつける書簡を送っていて、その後、3年間の政治浪人を余儀なくされるが、ラーマンへの支持が大きく損なわれたのは明らかであった。1970年、アブドゥル・ラザクに首相の座を譲ることになった。
[編集] 一人のムスリムとして
ラーマンは、1960年に、イスラーム福祉組織(PERKIM)を設立している。この組織は、ムスリムが新しい生活に適応できるように援助する組織である。彼は、なくなる前年まで、この組織の代表を務めた。また、1961年には、マレーシアがホスト国となって、国際クルアーン・リサイタル・コンペティションを開催している。これは、1951年に、クダー州でラーマンが組織した大会を発展させたものである。
また、1969年には、OIC結成にも尽力している。その結果、ラーマンは、初代のOIC事務総長に就任している。彼は、OIC内部で、イスラム銀行の設立にも尽力した。
[編集] 首相辞任後
1977年、ペナンを地盤とする新聞「ザ・スター」の社長に就任した。彼のコラムである”Look Back”と”As I See It”は政府批判を展開していた。1987年、マハティールの強権に反対する形でUMNO内部が分裂の危機に瀕したとき、マハティールは、ザ・スターを発禁処分としている。ラーマンは、その後、UMNOから分裂してできた46年精神党を支援した。1990年総選挙の際にも活動的に同党を支援したが、彼の健康はすでに相当な程度にまで悪化していた。
彼は、首相引退後は、ペナンに居住していたが、1990年12月6日、87歳で亡くなった。彼は今、アロースターにあるLanggar Royal Mausoleumで永遠の眠りについている。
[編集] メモ
- 1991年、ラーマンは、「マレーシアの過去の首相」シリーズで、他の首相と同じように郵便切手になっている。
- 2003年、ラーマン生誕100周年を記念して、再び、郵便切手が発行された。
前任: なし |
マレーシアの首相 1957年 - 1970年 |
後任: アブドゥル・ラザク |