グスタフ・シュトレーゼマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
グスタフ・シュトレーゼマン(Gustav Stresemann、1878年5月10日 - 1929年10月3日)は、ドイツ・ヴァイマル共和政期の政治家。ドイツ首相(1923年8月13日 - 1923年11月23日)。
ベルリンのビール醸造家兼宿屋の家庭に生まれる。ベルリンとライプチヒの大学で哲学・文学を学び経済学で博士号を取得。学生時代は学生団体のスポークスマンを務めた。
1902年にザクセンの工業家組合の設立に参画し、翌年結婚。1906年にドレスデン市議に当選すると、ザクセンに於ける国民自由党の有力な政治家として頭角を現し、1907年に帝国議会議員に当選する。1912年に落選し実業界に身を投ずるも、1914年に政界復帰を果たしている。政治的立場としてはリベラル保守に属するものの、ドイツ帝国の拡張政策には概ね支持の姿勢を通し、無制限潜水艦作戦にも賛成している。
ドイツ革命後は、ドイツ民主党・中央党に参画しようとするも拒絶。結局、国民自由党の右派を糾合する形でドイツ人民党を結成する。市場主義経済を信奉し社会民主党に対しては批判的な姿勢を保ちながらもヴァイマル共和政自体は否定しなかった。フランス軍がルール地方を占領しインフレーションが亢進していた1923年8月13日に首相兼外務大臣に就任、ブルジョア保守派・中道派・社会民主党から成る大連立政権を組織した。首相としては、暫くして財務大臣になったハンス・ルターや帝国通貨全権委員となったヒャルマル・シャハトと共にレンテンマルクに切り替えるデノミネーションを実施、インフレを沈静化させるのに成功した。
ミュンヘン一揆の首謀者の処遇をめぐって3ヶ月で首相を辞任するが、その後も度々外務大臣に就任し、1924年にドーズ案によって賠償金の減額に成功、1925年にはイギリス・フランス・イタリア・ベルギーとロカルノ条約を締結し相互不可侵を約し、ドイツは国際連盟への加盟を認められた。このロカルノ条約の締結に尽力したとして翌1926年にアリスティード・ブリアン(フランス外相)と共にノーベル平和賞を受賞した。
かつての敵国であるイギリス・フランスと和解し欧州統合の先駆けを作った政治家としてシュトレーゼマンは記憶されているが、その一方でポーランドに対しては領土問題で強硬姿勢を貫くなど単純に平和主義的・協調的な政治家とは言い切れない一面も持ち合わせている。
カテゴリ: ドイツの政治家 | ノーベル平和賞受賞者 | 1878年生 | 1929年没