ウエスト・メンフィス3事件
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ウエスト・メンフィス3事件 (-じけん) は、1993年にアメリカ合衆国アーカンソー州ウエスト・メンフィスのロビンフッド丘地域で起きた殺人事件である。3人の男児を殺害したとして3人の男が有罪判決を受けた。
(訳注: 日本語版ウィキペディアでは刑が確定した場合も犯罪者の氏名を挙げたり、被害者の氏名を挙げたりすることに対して極めて強い反対意見があります。本項目では公務員、専門家以外の個人名は一切出しません。英語版では被告と被害者の氏名が挙げられ、3人の被告については個別記事も存在します。興味のある方は他国語版をご覧ください)
首謀者であるとされた甲は死刑、残りの乙および丙は終身刑であった(訳注: 甲、乙、丙の生まれはそれぞれ1974年、1975年、1977年で、当時は全員10代だった)。この事件は地域社会のみならず全米からかなりの注目を浴びた。被告少年達は地域内では普段から変わり者と見られ、悪魔崇拝者との噂もあったことに対し、地域の大衆がメディアの報道や普段からの偏見によって煽動されパニック(モラル・パニック)を起こし、少年達を犯人に仕立て上げた冤罪ではなかったかとの批判も根強い。
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[編集] 男児殺害事件
1993年5月5日に、3人の8歳男児 — 丁、戊、己 — の失踪届けが戊の継父である庚から出された。翌日、3人の遺体がロビンフッド丘の小川から発見された。三人とも裸で、自身の靴ひもを用いて手首と踵とを結ばれていた。皆酷く打擲され虐待されていたが、戊の傷が最悪だった。頭蓋骨は折れ、鼠径部に刺傷があり、睾丸は切り落とされ、陰茎の皮膚は取り除かれていた。解剖によっても死亡推定時刻は明らかにならなかったが、戊が失血死、他2人は溺死であることがわかった。だが後になって、甲および乙の裁判の際に、検屍官は死亡したのはおそらく遺体発見の日の早朝だろうと証言した[1]。
殺人が行われたと思われる夜に、ロビンフッド丘の現場近くにあるBojanglesレストランの従業員が、「泥と血にまみれて呆然とした」一人のアフリカ系アメリカ人男性が店の女性便所にいると告げていた。翌日、被害者が発見されるとレストランの店長であった辛は血みどろのぼんやりした男と殺人事件との関連を考えて、二度にわたって警察に電話をかけた。ようやく警察が動き、便所の現場検証を行ったのは二度目の電話の後だった[2]。警察はロビンフッド丘の現場からその足でレストランの女性便所に現れ、犯人の遺留品の可能性のある血痕が壁やタイルにあったが、後にBryn Ridge巡査がこれらを紛失してしまった[3]。この明白な初動捜査の失敗は、後にアフリカ系アメリカ人の毛髪が犠牲者の一人をくるむのに用いられたシートから発見されるに及んで、特に厳しく批判されることとなった[要出典]。
裁判で庚は、子供らが失踪した夜、戊をベルトで打擲したことを認めた。検屍官は、戊の顔面にみられた複数の創傷はベルトのバックルで打たれた場合にできるであろうものと矛盾しないと証言した。失踪届けが出た後も、翌朝になるまで子供らの捜索は本腰をいれて行われることがなかった。
[編集] 捜査
そもそもの始まりから、無知と無視のために地域の警察が現場検証において誤ったとの指摘がしばしばなされている。これを示す衝撃的な例を二つ挙げよう。レストラン、ロビンフッド丘という二つの現場でのサンプルが混ざり合ってしまった可能性があることが一つ。もう一つがウェストメンフィス署 (WMPD) の血液サンプル紛失である。Gary Gitchell警部は凶悪犯罪の捜査に25年以上の経験があった([1]参照)。Detective (Sgt.) Mike AllenはWMPD以前の8年間、Crittenden County Sheriff's Departmentで犯罪捜査に当たっていた[要出典]。警察は、犯罪現場の保全における失敗、物証の収集を適切に行わなかったこと、ルーチンや義務、事件の捜査に関する文書がほとんどなかったこと、について激しい非難をうけることになった。
Mara Leverittに従うと、「(訳注、日本語版ウィキペディアの方針に従い、引用部分訳出せず。警察の記録はおざなりだった、という内容)」であった[4]。いくつかの証拠品が店の名前が入ったスーパーの買い物袋(原文では grocery sack)で保存されたことに Leveritt は異議を唱えている。証拠品の保存は素性のよくわかったものを使って行われるべきだからである。もっとも、こういった方法は、密封容器の中で駄目にするよりも乾燥状態を保ちやすい点で実践的には奨められている[要出典]。Leverittは他にも誤った思い込みをしており、現場のビデオ撮影を行ったのは、Mike Allan、Bryn Ridgeの二人の巡査が二人分の遺体を発見した数分後であるとしているが、実際には30分後にもまだカメラは使えなかった[要出典]。
捜索には一人の少年保護司 (juvenile probation officer)、数多くの法の執行と無関係なボランティアの捜索・レスキュー要員が参加しており、彼らは遺体が発見されたときも、自分たちの役割に照らしてほとんど驚かなかった[要出典]。警察が殺害犯人について推測するとき、保護司は甲がそれで「ありうる」 (capable) と考えた[要出典]。
法医学領域に造詣の深い歯科学者、病理学者の証言によると、少なくとも一人の遺体に人間が咬んだ後が見られたが、捜査当時これは見逃され、事件の4年後になるまで、公式の資格を持った法医学者 (board certified medical examiner) の調査をうけることがなかった。精査の結果、Byers and Branchの遺体に残された歯形と三人の容疑者の歯形とは一致しなかった[5]。
ウェスト・メンフィスは当時悪魔崇拝問題 (en:satanic ritual abuse) に対する興味が荒れ狂っていた場所の一つであった。これは広範な批判を受けた信条で、悪魔崇拝のカルトが広大なネットワークを作っており、幼児虐待、強姦、人身御供といった広範囲な犯罪を手がけているというものである[要出典]。ウエスト・メンフィス3事件のサポーターたちは、警察は推測ないしヒステリーに基づいて結論を急ぎすぎたと訴えている。
警察が甲を尋問したのは遺体発見の2日後であった。嘘発見機を用いた尋問の際に、甲は一切の関与を否定したが、嘘発見機の記録は虚偽を示すものだとされた。嘘発見機を操作したのは Durham 巡査であったが、虚偽であったことを示す記録は保存されていない。また、後の裁判の際、数多くのティーンエイジャーが出廷し、「警察の期待に沿わない回答をすると、他にも増してDurham巡査が口汚く罵った」と証言した。のこの尋問の後、「お前が恐れているものは何か」という質問に、甲は「電気椅子」であると答えた(アーカンソー州では薬物の注射による死刑が行われている)[2]。一ヶ月が経過しても、事件の捜査はほとんど進展しなかった。警察は甲の犯行を裏付けることに集中し、さらに二回にわたり尋問を繰り返した。そこでは警察は他に容疑者が多数おり、甲は直接の容疑者ではなく情報源なのだとしていた。
6月3日、警察は乙に質問を行った。乙は壬(女性)によって、甲に関する有望な情報源となりうる人物として名前が挙げられていたのだ[6]。壬の証言こそ軸となるべきものだったのだが、何年かたって、違法薬物の所持による長期の服役の後、話は自分ででっちあげたものだと認めた[6]。壬は不正な小切手(あるいは領収書 check)を切った件で Marion 署の Don Bray 巡査による捜索をうけていた。壬は結局この罪に問われることがなかった[3]。尋問の間、乙の両親は立ち会わなかった[要出典]。尋問時において、乙の知能指数が報告された通りの72であったとすると、乙の精神年齢は12歳を少し超えた程度であったことになる。乙の自白の記録はわずか46分しかのこされていない[4]。乙の裁判では、虚偽の自白及び警察による弾圧に関する専門家でピューリッツァー賞受賞者であり、バークレー大の社会心理学教室教授である Richard Ofshe 博士が証言し、短い自白の記録は警察によって強制された「古典的な例」であるとした[6]。Ofshe教授は乙の言明について「(引用部に付き訳さない。ともかく馬鹿げている、という程度の意)」と描写した[5]。乙が犯罪への関与を否定した証拠はない。また、判決が下った後にも、第二、第三の自白を繰り返し、第三の場合については乙の二人の弁護士が臨席しており全てがテープで記録された[6] [7]。
警察に尋問されたとき、乙は知的障害を持っており(知能指数は72であった)、未成年であり、ミランダ警告をうけてはいたものの、後に、それらを完全には理解できていなかったと主張している。これらの点から、乙の自白は強制されたもので、信頼できないという批判が多い[要出典]。アーカンソー州最高裁は、長々とした陳述の中で、乙の自白は実際に自発的なものであり、警告と結果を実際に理解していたと決定した[8]。乙は最初の自白の中で特に、「自分は警察に怪我を負わされた」と言っている[7]。乙が警察で発言した内容のいくつかの部分は、裁判が始まる前から報道機関にリークされ、Memphis Commercial Appeal 新聞の第一面に掲げられた[要出典]。
乙の最初の自白から時を置かず、警察は甲と甲の親友である丙を逮捕した。
乙の弁護士、Dan Stidham(後に地方自治体の判事になった)は詳細な批評文を発表し、警察が犯した重大な失敗と見当外れな捜査について力説している[9]。
[編集] 嫌疑の背景
丙と乙には軽微な前歴があった(それぞれ暴力行為と万引き)。また乙はカッとなりやすく、すぐに拳がでるタイプだったが、甲にははるかに大きな問題を起こしたことがあった。
甲の家庭は極貧でたびたびソーシャルワーカーの訪問を受けており、甲はほとんど登校したことがなかった。甲にはくっついたり離れたりしていた女友達(癸)がおり、騒々しい関係をもっていたが、最高潮に達したときに二人は駆け落ちした。風雨の中でトレーラーを襲った所逮捕されたが、甲だけが押し込みで有罪になった。
警察は、この若い恋人たちが子供を持とうとし、また幼児を生贄にしようと計画しているという噂を聞いていた。これを根拠にして、警察は精神鑑定のために甲を入院させた。鬱病で自殺念虜があると診断され、イミプラミンが処方された。検査の結果、計算能力が低いが読むことと話すことは平均以上であるとわかった。
甲はアーカンソーの精神病院に数ヶ月入院した。症状は重く、Social Security Administration から「完全障害」(full disability) の状態にあると評価された。甲の裁判中、被告側の George W. Woods 博士は甲が「(引用に付き訳さない。気分の振幅が激しく、幻聴幻視を伴う慢性的な重度の障害)」であるとした。
[編集] 裁判
甲と丙は一緒に、乙は別に、裁判が行われた。
1993年5月10日、遺体発見の4日後、警察はまだ事件を解決していなかった。Bryn Ridge 巡査が甲を尋問し、3人の被害者についてどう考えるか問うた。Ridge の記述によると、甲の答えは次のように要約できた:「(引用部分か判断できないので訳さない。甲は虐殺の状況をある程度具体的に答えている。特に他に比べて損傷が酷い犠牲者がいたことについて。)」。この時点で、警察は子供のうち一人が特に酷い損傷を受けていることが、一般には知られていないとと考えていた。ところがこれは事実と矛盾する。三人の遺体が発見された数分後には、庚が「二人は酷く殴られているが、もう一人はもっと酷い」とレポーターに告げているのである。Det. Gitchell がこのことを公表していなかったという点と照らし合わせると、奇妙なことである[6]。
乙の自白も陪審に示された。乙によると、1993年5月5日の極めて朝早く、丙からの電話があった。丙は乙に、ロビンフッド地域まで甲と一緒に行ってくれと頼んだ。乙は同意した。同地域には小川があり、被害者らが自転車で乗り付けてきたとき、彼らはそこにいた。丙と甲は小川にやってきた子供らを呼び寄せた。子供らは甲と丙に酷くぶたれた。少なくとも子供のうち二人は強姦され、甲と丙にオーラルセックスを強要された。乙によると、乙自身はそれを見ていただけだという。
その最中に、己が逃走を図り走り出した。乙は己を追跡し、甲と丙の所に連れ戻した。乙はまた、丙はナイフを使って子供達の顔面を切りつけ戊の陰茎を切ったという。甲は子供の一人を叩くのに大きなステッキを使った。三人とも服を脱がされ縛り上げられた。
乙によると、乙は子供が縛られた後のどこかの時点で逃げたが、戊が死ぬ所までは確かに見た。帰宅後しばらくして、乙は丙からの電話を受けた。電話で丙は「やっちまった」「誰かに見られてたらどうする」と言っていた。甲がいるのも分かった。乙はカルトに関与しているか質問され、三ヶ月ほど参加したことがあると答えた。ほとんどの場合、参加者は森で会合を開いた。宗教へのイニシエーション(参入儀式)として乱痴気騒ぎを行い、犬を殺して食べた。あるときカルトの集会で甲が三人の子供を写した写真を見たといい、甲は子供達を監視していたと言った。
乙は続いて、被害者に及ぼされた性的虐待の詳細に進んだ。少なくとも一人の子供は声をかけられるとき頭と耳をつかまれた。丁と戊は二人とも強姦された。三人とも茶色のロープで縛られたという。他にも増して、これらの言明は乙の自白の信憑性に疑問を投げかけるものである。乙の自白とは異なり、司法解剖の結果、強姦の証拠はなかった。また、被害者らを縛っていたのは子供ら自身の靴ひもであって、茶色のロープではなかったことが文書から明らかである。
「い」と「ろ」(姓が一致している。前者は男性、後者は女性)は甲をよく知っており、甲と女友達である癸が殺害のあった夜9:30過ぎに Blue Beacon Truck Stop のそばを歩いているのをみかけた。そのTruck Stopは遺体が発見されたロビンフッド森のそばにある。証人は、甲が着ていたのは暗い色のシャツで、衣服は汚れていたと証言した。この証言によって、甲は汚れた服を着て時間的にも空間的にも殺害現場の近くにいたことになった。この時点でははっきりしなかったが、別の証拠によって、癸は丙を見間違えたものだろうとされた(二人とも長髪でやせていた)。
20歳の「は」(女性)は、甲が「男の子を三人殺した」というのを聞いている。15歳の「に」(女性)は甲が「俺は三人の小さな男の子を殺した。自首するまでにあと二人殺すつもりだ。そのうち一人はもう狙いをつけている。」というのを聞いた。別の証人によるこれら二つの証言は、甲の容疑を裏付ける直接の証拠となった。証人は甲の弁護士によって反対尋問をうけた。 その際、この二人の女性は問題の発言の前後に何も聞いていないこと、どれくらい離れていたかはっきりしないことが明らかになり、丙以外の甲の周囲の者を同定することもできなかった。
State Crime Laboratory 所属の犯罪学者 Lisa Sakevicius は、被害者の衣服から採取された繊維と甲の家から採取された繊維とを比較し、顕微鏡的に一致すると証言したが、同時に顕微鏡的に一致する繊維は多数あるので、この比較からは何も言えないとも証言した[6]。
州の法医学者 Frank Peretti 博士は、被害者三人に鋸歯状の創傷がみられたと証言した。同時に博士は戊を去勢したのが誰であれ、ナイフの扱いについてある程度習熟した者で、十分な照明と時間が必要だったはずだと証言した。1993年9月17日、ひとりのダイバーが丙の実家の裏手にある湖からナイフを拾い上げた。大型で、先が鋸歯状になっており、刃には"Special Forces Survival Roman Numeral Two"の文字があった。Peretti 博士は被害者にみられた創傷の多くは、このナイフと矛盾なく、それを用いて付けられたものであり得ると証言した[6]。
「ほ」(女性)は、甲が似たナイフを持ち歩くのを見たことがあると証言した。ただしそれは一方の端にコンパスがついたものだったという。テネシー州チャタヌーガでナイフのコレクションを扱っている店主「へ」は、自分の会社は1985年から1987年にかけてこの型のナイフを販売したことを証言した。陪審には1987年のカタログが提示された。そのカタログには、発見されたナイフと類似したナイフの写真が掲載されていた。端にコンパスがあり、"Special Forces Survival Roman Numeral Two"の文字が刃にあった。
当局の説では、悪魔崇拝が殺害の動機であった。反対尋問で、甲はオカルトに浸っており、その実践にも親しんでいたと認めている。甲の部屋からは、オカルト関連の品々が見つかっている。例えば自分自身でペンタグラムや逆十字架を描き呪文を認めた死亡記録 (funeral register) である。押収された証拠の中には、黒のTシャツやメタリカの詩があった。甲は暖かい時期でも黒の長いトレンチコートを着ていたと証言している。ある証人「と」は事件の6か月前、黒くて長いコートを着た甲、丙、乙が一緒に複数の長いものを持ち歩いていたのを見たといっている。だが、「と」と甲を含むウェスト・メンフィスのティーンエイジャーとの関係からすると、「と」は信頼できない証人に見える。Peretti 博士は、子供らの頭部の創傷のいくつかは大きさから見て、警察が発見した二本のステッキによるものと考えて矛盾しないと証言した。結局これらの傷が特定の凶器と一致するとは結論できず、警察が発見した二本のステッキは7月まで発見されなかったものである[8]。
オカルト殺人事件専門家の触れ込み(しかし当該領域の正規の教育を受けたことはないと証言している)[6]で Dale Griffis 博士は州最高裁 (case-in-chief) において次のように証言した。殺人は「オカルト的装飾」である。事件の日付が、ペイガニズムにおける祝日と近接していることには当夜は満月であったことと同様に重要な意味がある。博士によると、生贄とされるのはしばしば幼児である。それは若くて無垢であればあるほど、生命の力を持つからである。また、犠牲者が3人であることに触れ、3という数はオカルティズムでは重要な意味を持つと証言した。更に、子供は全て8歳で、8は魔女の数字であるとした。洗礼がらみの宗派であるからか、あるいは単に血を洗い流すためか、生贄の殺害はしばしば水際で行われると証言した。犠牲者の手首と足首を縛ったのは性器を露出するために重要で、戊の睾丸の除去も重要である。なんとなれば、睾丸の除去は精液を得るためであるからである(ただし、被害者らは第二次性徴以前であった)。博士は、血の跡がないことも重要であろう、それはカルトのメンバーが血液を保存して、後の儀式で飲んだり入浴するのに用いたりするためであろうとも言った。必要以上にめった切りにしたことは、オカルト的な倍音を奏でるものであると証言した。博士は左右で傷が異なることの重要性を証言した: オカルティズムを実践する人々は体の中心線に関する理論を採用するはずである。体の右半分はキリスト教の信仰と同義であり、左側は悪魔的なオカルト実践と関連する。博士はまた、土手の開けた場所は儀式の場として矛盾がないだろうとも証言した。要するに、Griffis博士は悪魔崇拝による殺人として重要な証拠があると証言したのである。
繊維を分析した犯罪学者 Lisa Sakevicius は、戊の着ていた白い水玉模様のシャツに青い蠟が付着しており、それは蠟燭のものと考えて矛盾がないと証言した。
Byrn Ridge 巡査の証言では、甲は被害者が激しく傷害されていると理解していると語っていた。一人が他の者たちより激しく切られたことや溺れたこともである。Ridge は甲がこの発言をした時点では、戊が他の二人の被害者より酷く虐殺されたことは一般には知られていなかったと証言した。しかし、前述の通り、Mr.Byersは遺体発見後一時間以内に、それをレポーターに告げている。
甲によると、一人が激しく切られていたことは新聞から知った。保護司が自分に殺人に関する新聞記事を見せた。ただし反対尋問では、それらの記事に一人が特に激しく切られていると出ていなかったこと、新聞でその事実を読んだのではないことを認めた[要出典]。
容疑者甲のノートからピンク・フロイドの歌詞や、スティーヴン・キングの小説[10]が見つかり、甲がヘヴィーメタルとウィッカに興味を持っていたことも法廷で示され、彼らティーンエイジャー達に対抗する証拠として挙げられた。州側の「オカルト犯罪」関係の有識者はメールオーダーで学位を得たもので、この主題に関する大学の課程を経たものではなかった(訳注: これは所謂ディプロマ・ミルでいいかげんに学位を得た素人だ、という暗示であろう)[要出典]。
乙の自白の模様を撮影したビデオテープが陪審の前で再生された[要出典]。
1994年の初頭には、三人とも殺人に関して有罪となり、甲は死刑、丙は仮釈放なしの終身刑、乙は生涯+40年の刑を受けた。
[編集] 余波
ドキュメンタリー映画作者のジョー・バーリンジャー(Joe Berlinger)とブルース・シノフスキー(Bruce Sinofsky )が映画 『パラダイス・ロスト( Paradise Lost )』の第一作を制作している時、戊の継父であった庚は二人に一つのハンティングナイフを贈った。血痕のようなものに気づいた二人は、それを警察に持ち込んだ。警察の分析で、それは人血で、戊の血液型と一致した。庚は初めナイフを使ったことはないと主張したが、血痕が発見されると、雌鹿を解体するのに一度だけ使ったと主張するようになった。血液型が息子のものと一致したと聞いた庚はなぜそんなものがついたのか全く分からないと言った。尋問の間WMPDの職員は庚に、うっかりナイフを放置しておいたのだろうと示唆し、庚はそれに同意した。庚の血液型とも一致していたので、後には自分の親指を切ったことがあると主張するようになった。現在の進んだ鑑定法ならばそれが誰の血液かを結論できるかもしれないが、証拠品は全て最初の検査に利用されて残っていない。
収監後、甲乙丙三者は歯形をとられたが、戊の遺体に残っていたものとは異なっていた。庚は最初の裁判の後で、歯を全部抜いてしまったが、それに一貫した理由を提出していない。あるときは喧嘩で失ったといい、あるときは服薬の結果だといった。庚は失踪直前に継子を打ったことを明らかにしており、妻である「い」を打ったことで有罪になった前歴がある。「い」は殺人事件の数週間前、戊の通う学校に連絡をとり、息子が性的虐待を受けているとの懸念を表明していた。
この事件を調べた犯罪専門のプロファイラは、仮想的な容疑者の人格の主要な要素に暴力的な性質があると考えた。そのプロファイラはまた、容疑者は最も酷く暴力を振るわれた子供(すなわち戊)に近い存在であるはずであると指摘した。
庚が一時期警察に対する情報提供者として活動していた事実、一件のドメスティックバイオレンス(訳註: 原文からは夫婦間かどうかわからない。子供に対するものかも)を含むいくつかの犯罪歴がある事実は、裁判が終わるまで明らかにされなかった。通常と異なり、これらの前歴は隠蔽され、保護観察もうやむやにされた。Leverittは、「(引用部につき訳さない。庚と警察や法廷はつるんでいたのではないか、という内容を暗示してる)」と言っている[11]。
被害者の中で、戊だけがカルバマゼピンを投与されていた。これもまた戊が攻撃の主要な目標であったことを示唆する。この薬品は当時腫瘍の治療のため庚が服用していたものの一つである。戊自身もADD(注意欠陥障害)の治療のためにそれを利用していたが、死の当日は服用しなかったと庚は言っている。
2003年10月、有罪判決の根拠となる証言を行った壬はアーカンソータイムズ誌のインタビューに応じ、警察で話した内容は全てが嘘であったと述べた。壬は更に、警察から、協力しなければお前を子供から引き離してやると遠回しに言われたと断言した。警察に行ってみると、警察官たちは容疑者の写真を壁に貼って、ダーツゲームの的に使っていたという。壬はまた、警察が「不明瞭」(で、しかも紛失することになる)としたオーディオテープは完全にクリアで、有罪判決をもたらすような話は一切なかったと言っている。
今日、「ウェスト・メンフィス3」は本当に有罪であったと考える人々が多い(例えば己の姉。乙の父を2005年の初めに攻撃した)一方で、判決には更なる捜査が必要だとする者もいる。戊の実父である「ち」は、2000年に、ウェスト・メンフィス3ウェブサイトに自身の疑念を記している[12]。
加えて、多くの人々が、物証あるいは、すくなくとも目撃証言(証言によって情状酌量を得ようとしない側からの)のどちらかなしに人を終身刑や極刑に処することは、特に結果が死をもたらす場合においては、不合理だと信じている。
アーカンソーの法律システムでは、上訴した場合もほとんど全てと言っていい程検察側有利の判決が下る[13][14][15]。
執筆時点に於いて、基礎的な法医学的検査が行われているところである。
[編集] ドキュメンタリーと研究
この事件のドキュメンタリー映画が二本ある。『パラダイス・ロスト:ロビンフッドヒルズの児童殺害(en:Paradise Lost: The Child Murders at Robin Hood Hills)』 及び 『パラダイス・ロスト2:新事実(en:Paradise Lost 2: Revelations)』である。書籍としてはガイ・リール(en:Guy Reel)の 『罪なき者たちの血(en:Blood of Innocents)』 と マーラ・レヴァリット(en:Mara Leveritt)の 『悪魔の結び目(en:Devil's Knot)』 がある。映画とレヴァリットの著作は極めて批判的で、冤罪説を唱えている。ただし、映画制作者が甲の精神病歴を省いていることには批判もある。最初の 『パラダイス・ロスト』(訳註: 失楽園です。同じタイトルの日本の官能小説/映画と混同しないでください)は裁判、捜査の間に撮影された。現在 『パラダイス・ロスト3』 が製作中である。
甲もまた自伝を発表した。題名は『(訳註: 当然挙げません)』である。
日本でもTV番組奇跡体験!アンビリバボーが、同事件を冤罪の面から特集した。
Stacey Simmons はこの事件を元に Contested Suburbs: space and its representation in moral panics (『紛争下の郊外: 空間とモラル・パニックにおけるその表現』)という論文を執筆した。この論文では、アメリカ合衆国で発生した3件のモラル・パニックを比較している。ウェスト・メンフィス3、マクマーティン保育園事件( McMartin Preschool Case)、コロンバイン高校銃乱射事件の3つである。論文は次のような結論を導いた。空間、その地域でのメディアの表現、その地域の実収入、人種的均一性、他の集団的な因子によって、道徳パニックがさらに大きなメタパニックに至るか( コロンバインとマクマーティンの場合 )、ウェスト・メンフィス3のように明らかにそこまで至らないかが決まる。
[編集] 支援の声
被告が過激な種のロックのファンであったこと、それゆえ地域社会から異端視され有力な容疑者とみなされたことから、この事件にはロックやポップ系のミュージシャンから重要なサポートが表明されている。ミュージシャンらの活動によってこの事件は有名になり、救援基金の設立などがみられるようになった。以下「ウェスト・メンフィスの3人を釈放せよ」の原文は"Free The West Memphis 3"である。
- パール・ジャム(en:Pearl Jam)のリーダー、エディー・ヴェダー(en:Eddie Vedder)はしばしば「ウェスト・メンフィスの3人を釈放せよ」というシャツを着て写真撮影されている。
- パール・ジャムのライブDVD『en:Touring Band 2000』で、エディー・ヴェダーはen:Do The Evolutionの歌詞に「ウェスト・メンフィスの3人を釈放せよ!」を付け加えた。
- (この項目は訳さない。甲がアルバム en:Pearl Jam 中に作詞者の一人として挙げられていることを紹介している)
- 女優のウィノナ・ライダーは公式に再審請求活動を支持している。
- ドリーム・シアター(en:Dream Theater)のパーカッション奏者マイク・ポートノイ(en:Mike Portnoy)は公式サイトのなかで「ウェスト・メンフィスの3人を釈放せよ」シャツを着た姿を見せている。
- メタリカ(en:Metallica)— 丙はこのバンドのファンである — はドキュメンタリー映画Paradise Lostシリーズにオリジナル曲を提供した。
- ヘンリー・ロリンズ(en:Henry Rollins)が音頭をとって、さまざまなヒップホップ、ヘヴィーメタル、パンク他のミュージシャンらが集まり、en:Rise Above: 24 Black Flag Songs to Benefit the West Memphis Three(「浮かび上がれ: ウェスト・メンフィスの3人を支援する24の黒旗の歌」。訳注: BLACK FLAGについては、en:Henry Rollins参照)を録音した。売り上げによる利益は全て容疑者らの支援基金に寄付された。
- もう一つの支援アルバムが2000年代に発売された。「ウェスト・メンフィスの3人を釈放せよ」(en:Free the West Memphis 3) という題名で、スーパーサッカーズ(en:Supersuckers)のエディ・スパゲッティ(en:Eddie Spaghetti)が組織したものである。参加ミュージシャンはスティーヴ・アール(en:Steve Earle)、トム・ウェイツ(en:Tom Waits)、スーパーサッカーズ、ジョー・ストラマー(en:Joe Strummer)、エディー・ヴェダーである。
- キリスト教色を前面に押し出す音楽のジャンル、クリスチャン・ハードコア(en:Christian Metalcore)バンドのゼイオー(Zao)は2002年のアルバム Parade of Chaos 及び最もヒットしたアルバム Legendary の中で、"Free the Three" (「3人を解放せよ」)という歌を歌っている。
- 2003年、Cruel And Unusual (悲惨にして尋常でない)と銘打つ支援展覧会がロスアンジェルスの美術ギャラリー「シックススペース」(en:sixspace)でウィノナ・ライダー主催で開かれた。展示された作品は美術家のレイモンド・ペティボン(en:Raymond Pettibon)、グラフィックデザイナーのシェパード・フェアリー(en:Shepard Fairey)、歌手のマリリン・マンソン(Marilyn Manson)らのものを含む。また、この事件に関与した弁護士ら(en:Jello Biafraなど)の一連の講演も同時に行われた。
- 2004年、リヴァイアサン(en:Leviathan)はアルバム"en:Internal Inferno"の中で "West Memphis Three"をリリースした。
- アルカライン・トリオ(en:Alkaline Trio)の2005年のアルバム Crimson にはウェスト・メンフィス3を扱った歌 "Prevent This Tragedy" がある。
- 英国のコミックブック・アーティスト、デイヴィッド・ハイン( en:David Hine )の 『デアデビル:救済(en:Daredevil: Redemption)』は2005年にマーベル・コミック(en:Marvel Comics)から出版された限定版コミックスの一つであるが、弁護士マット・マードック(en:Matt Murdock :ヒーロー「デアデビル」の正体)が3人の若者を弁護する事件を物語化している。マードックは彼らを救うことができなかったが、デアデビルに姿を変えた彼が真犯人を法廷に送り込むことに成功している。
- ヒップポップのアーティスト、セージ・フランシス(en:Sage Francis )は2005年のアルバム en:A Healthy Distrustの1トラック Slow Down Gandhi でウェスト・メンフィス3と Paradise Lost シリーズに言及し、「(引用部分に付き訳さない。自殺傾向のために死刑を食らったという大意)」と言った。
- 2006年、パンクロックバンド「ミスフィッツ」の元ボーカルとしても知られるマイケル・グレイヴス(en:Michale Graves)は "Almost Home"というツアーを始めた。このツアーは、事件とそれに関与した人々を広く知らしめるべく企画された。Michale Gravesは頻繁に甲に手紙を書き、甲が書いた歌を歌っている。
- コメディエンヌであり政治活動家でもあるマーガレット・チョー( en:Margaret Cho )は時折ブログ上でウェスト・メンフィス3への支持を表明している。甲とのやりとりもまたブログに掲載している。
- 2006年5月12日、サンフランシスコの111 Minna Galleryにおいて Skeleton Key (骨の鍵) と題する支援美術オークションが開催された。特筆すべき出品者は甲, Cinquain, Norman Reedus, Jay Mueller, Mick Rock, Bob Gruen, Erik Rose and Lorri Davisらである。収益は弁護基金に渡された。
- 日本でも2003年7月29日に、"rollins band plays only black flag songs"と銘打つ支援イヴェントが開かれた(川崎クラブチッタ)
[編集] 引用
- ↑ Testimony, Echols/Baldwin Trial, Dr. Frank Peretti
- ↑ Testimony, Echols/Baldwin Trial, Regina Meek
- ↑ Testimony, Echols/Baldwin Trial, Bryn Ridge
- ↑ Leveritt, M., Devil's Knot: The True Story of the West Memphis Three, Atria Books, 2002. ISBN 0743417593
- ↑ Revelations: Paradise Lost 2. HBO. 28 July 2000. Broadcast. 17 Mar 2006 <http://www.imdb.com/title/tt0239894>
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 Steel, Fiona. "The West Memphis 3." Court TV. 17 Mar. 2006 <http://www.crimelibrary.com/notorious_murders/famous/memphis/index_1.html>.
- ↑ Transcript, MissKelley, Jr. Confession
- ↑ Testimony, Echols/Baldwin Trial, Dr. Frank Peretti http://p210.ezboard.com/fwestmemphisthreediscussionfrm31.showMessage?topicID=35.topic.
[編集] 外部リンク
- West Memphis 3 Support Group
- West Memphis 3 Audio Interview on Santa Cruz Indymedia
- West Memphis 3 at the en:Court TV Crime Library
- Paradise Lost: The Child Murders at Robin Hood Hills - Internet Movie Database
- Paradise Lost 2: Revelations - Internet Movie Database
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | アメリカ合衆国の殺人事件 | 少年犯罪 | 冤罪 | 表現規制問題