ウィリアム・リーヒ
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ウィリアム・ダニエル・リーヒ (William Daniel Leahy, 1875年5月6日 - 1959年7月20日) はアメリカの海軍軍人。最終階級は元帥。アイオワ州ハンプトンに生まれ、1897年に海軍兵学校を卒業。戦艦オレゴンに配属され、米西戦争に従軍した。その後、フィリピンおよび中国勤務を経て1904年にアメリカに帰り、海軍兵学校教官を務める。ついで、在ニカラグア米軍司令官の参謀長に就任。
1915年から1916年にかけては砲艦ドルフィンの艦長を務め、ついで戦艦ネヴァダの副長に就任。アメリカの第一次世界大戦参戦に際しては輸送艦プリンセス・マトイカの艦長となり、フランスへの兵員輸送に従事した。この功績により、1918年には海軍十字章を受章。またこの間に、当時海軍次官だったフランクリン・ルーズヴェルトと知り合っている。1920年代には巡洋艦セントルイスおよび戦艦ニューメキシコの艦長を務め、1927年に少将に昇進。兵站局長、ついで航海局長に任命された。1931年には中将、1936年には戦闘艦隊司令長官に就任し、あわせて大将となった。1937年1月2日、ルーズヴェルト大統領より第7代海軍作戦部長に指名され、1939年8月1日にいったん退役するまでこの任にあたった。
1939年にはプエルトリコ総督となり、ついで1940年、フランス大使を拝命。ヴィシー政権のヒトラーへの抵抗を呼びかけたが、これは成功しなかった。1942年6月20日には再び海軍に復帰し、陸海軍参謀長会議議長 (Chief of Staff to the Commander in Chief, U.S. Army and Navy) に就任。大統領の個人的な軍事顧問を務めた。1944年12月15日には新たに制定された海軍元帥の地位が与えられ(五つ星元帥中の最先任)、1949年に初代統合参謀本部議長 (Chairman of the Joint Chiefs of Staff) にオマル・ブラッドリー大将が就任した後は、1959年に没するまでの間、海軍長官の顧問として軍務に留まった。
リーヒは決して卓越した戦略家でも軍政家でもなかったが、穏健な良識家として知られ、とりわけルーズヴェルト大統領の信望が篤かった。陸海軍参謀長会議においては表立って意見を表明することはせず、会議の調整役と大統領への連絡役に徹したという。ルーズヴェルトの死後は引き続きトルーマン大統領を補佐したが、非戦闘員を犠牲にすることをよしとしない軍人として立場から、日本への原子爆弾投下に対しては批判的だった。
[編集] 外部リンク
- アメリカ陸海軍参謀長会議議長
- 1942 - 1949
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- 先代:
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- 次代:
- オマル・ブラッドリー
- アメリカ海軍作戦部長
- 1937 - 1939
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- 先代:
- ウィリアム・スタンドレイ
- 次代:
- ハロルド・スターク