アーネスト・キング
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アーネスト・ジョゼフ・キング(Ernest Joseph King, 1878年11月23日 - 1956年6月25日)はアメリカ海軍の軍人、元帥。オハイオ州ロレイン生まれ。第二次世界大戦中は海軍制服軍人のトップである合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長として戦略指導を行い、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツの直属上官だった。
1897年に海軍兵学校へ入校。在学中に起きた米西戦争に志願して巡洋艦サンフランシスコに乗り組んだ。
兵学校卒業後は様々な勤務を経験し、第一次世界大戦後、大佐時代に48歳でパイロットの資格を取り、航空畑に入って空母レキシントン艦長となる。さらに海軍大学校で学び、1933年、少将に昇進して海軍航空局長に就任。1938年、航空艦隊司令官、中将。1941年2月、大西洋艦隊司令長官、大将。
真珠湾攻撃の責により合衆国艦隊司令長官兼太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将が解任されると、キングは1941年12月30日に合衆国艦隊司令長官の後任となった(太平洋艦隊司令長官の後任がニミッツ)。さらに1942年3月に海軍作戦部長ハロルド・スターク大将が更迭されると、キングはこの職も兼任し、1944年12月17日、戦時の特例として設けられた元帥に昇進した。「ヨーロッパ第一主義」に傾きがちな陸海軍参謀長会議議長のメンバーとして、キングは対日戦での勝利に精力を注ぎ込んだ。
個人的にも日本嫌い、日本人嫌いで知られていたが、一方でイギリスにも好印象を持っておらず、特に大戦中はイギリスのアメリカよりかかり姿勢に批判的であった。その為、大西洋方面の意思決定会議にキングが参加すると、場が荒れたと言う。
キングは上司からも部下からも嫌われやすい性格の持ち主だったが、海軍士官としての有能さは、彼を嫌う人々でさえ認めざるを得ないものであった。大統領に直属する合衆国艦隊司令長官と、海軍長官の幕僚である海軍作戦部長のポストを兼任したのは、アメリカ海軍の歴史においてキングただ1人である。しかし戦争終盤に元海軍次官で海軍贔屓のルーズベルト大統領が死去して昇格したトルーマン大統領はキングを嫌っており、フォレスタル海軍長官とも不仲だった。そのためキングは第二次世界大戦に勝利すると厄介者扱いされ、1945年12月15日に海軍作戦部長をニミッツに譲って退いた(合衆国艦隊司令長官は1945年10月に廃止)。
ファラガット級駆逐艦の5番艦が彼にちなんで命名された。
[編集] 外部リンク
- Fleet Admiral Ernest Joseph King's biography at the Official U.S. Navy website
- Fleet Admiral Ernest J. King's biography at the Official USS King (DLG-10/DDG-41) Association Website
- アメリカ海軍作戦部長
- 1942 - 1945
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- 先代:
- ハロルド・スターク
- 次代:
- チェスター・ニミッツ