アーッレ・メリカント
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アッーレ・メリカント(Aarre Merikanto, 1893年6月29日 - 1958年9月29日)はフィンランドの作曲家。父親は、盛時はシベリウス以上の国民的人気を集めた作曲家で音楽教授のオスカル・メリカント。
[編集] 略歴
1911年にヘルシンキで学んだ後、1912年から1914年までライプツィヒ音楽院に留学してマックス・レーガー、1915年から1915年までモスクワ音楽院でセルゲイ・ワシレンコに師事。1917年にはペトログラードにいて、この時期にスクリャービンの音楽を知って決定的な影響を受けた。1919年にフィンランドで結婚。
初期の交響詩《レンミンカイネンLemminkäinen 》や《交響曲 第1番 ロ短調》(いずれも1916年)は、シベリウスの影響のもとに国民楽派の作曲様式にしたがっているが、フィンランド独立後の1920年代にかけてモダニズムの方向を模索した。交響詩《パン》(1924年)では明らかにスクリャービンの《法悦の詩》や《プロメテ―焔の詩》に影響された楽想を随所に聞き取ることができる。《クラリネットとホルン、弦楽六重奏のための協奏曲》(1925年出版)はヨーロッパ大陸にその名を知らしめた作品で、響きは聴感的にヒンデミットの作品に近い。
1920年代のアーッレ・メリカントは、同じくスクリャービンに心酔した、エルネスト・ペーングー(1887年~1947年)やヴァイノ・ライティオ(1892年~1945年)の2人と並んでフィンランドのアヴァンギャルド音楽の推進者として悪名を馳せ、「恐るべき子供たち」たちとして、言うなれば「父なるシベリウスへの反逆児」として、はっきり言えば無視された。このため彼らは、フィンランド楽壇で孤立し続けた。たとえばメリカントは、急進的な作風に傾く前に歌劇《ユハJuha 》を完成させていたものの(1920年)、この作品が歌劇場に受理されたことはなかった。このような状況が耐えられなかった彼らのうち、ライティオとメリカントは穏健な作風への回帰を余儀なくされ、転向のできなかったペーングーは自殺した。ちなみに、歌劇《ユハ》は現在フィンランド国内で、20世紀前半における最も重要なフィンランドの舞台音楽の1つとされている。
メリカントはすでに1930年代には後期ロマン派の様式に戻っているが、しかしかつてのような国民楽派の様式に戻ったわけではない。この時期に作曲された《4つの管弦楽曲》や《宗教的アンダンテ》は、わかり易く印象深い旋律が使われているが、和声的にはいわゆる「中期スクリャービン」やラヴェルを思わせるところがある。《ピアノ協奏曲 第2番》(1937年)や《チェロ協奏曲 第2番 ニ短調》(1941年作曲、1944年改訂)はより全音階的だが、独奏楽器の扱いやオーケストレーション、和声的感覚や旋律の歌わせ方がプロコフィエフを連想させる。《ピアノ協奏曲 第3番》(1955年)はいくぶんバルトークに近い。
[編集] その他の作品
- ピアノ協奏曲 第1番(1913年)
- ヴァイオリン協奏曲 第1番(1915年)
- 交響曲 第2番 イ長調(1918年)
- チェロ協奏曲 第1番(1919年)
- ヴァイオリン協奏曲 第2番(1925年)
- 管弦楽のための夜想曲(1928年)
- 交響曲 第3番「単一楽章の交響曲」(1931年)
- ヴァイオリン協奏曲 第3番(1931年)