アブドーラ・ザ・ブッチャー
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アブドーラ・ザ・ブッチャー | |
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プロフィール | |
リングネーム | アブドーラ・ザ・ブッチャー プッシーキャット・パイキンス ゼーラス・アマーラ |
本名 | ローレンス・シュリーブ |
ニックネーム | 黒い呪術師 |
身長 | 186cm |
体重 | 150kg |
誕生日 | 1941年1月11日 (1936年1月1日) |
出身地 | カナダ・オンタリオ州 (スーダン生まれを自称) |
トレーナー | ザ・シーク |
デビュー | 1958年 |
アブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah The Butcher)は、カナダオンタリオ州ウインザー出身のプロレスラー。本名はローレンス(ラリー)・シュリーブ(Lawrence "Larry" Shreeve)。入場テーマ曲はピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』(全日本プロレス悪役外国人のテーマ)。
一般的には1936年1月1日生まれとされているが、本人によるとこれは誤りで、正しくは1941年1月11日生まれだという。
目次 |
[編集] 経歴
- 来日前
インドからの移民である父とアフリカ系アメリカ人の母の間に生まれる(専門誌やプロレス団体のパンフレットではスーダン出身と自称している。実際には母方の祖父がスーダンに住んでいたことがあるだけ)。少年時代は柔道と空手に熱中した。
1958年(1961年との説もある)、ジャック・ブリットにスカウトされデビュー。デビュー当時は「ゼーラス・アマーラ」のリングネームを名乗っていたほか、現在の名前に落ち着くまで何回かリングネームを変えている。ザ・シークのテリトリーであるデトロイトを主戦場としていたが、アメリカのプロモーターから嫌悪され、中米や東南アジアに遠征していたこともある。
- 日本プロレス参戦期(1970-1972年)
1970年、日本プロレスの8月興行で初来日。日本ではほぼ無名の存在であったが、開幕戦のBI砲とのタッグ戦でジャイアント馬場からピンフォールを奪い、東京スタジアム大会ではそれまでにない桁外れの場外戦を繰り広げるなど、シリーズが進むにつれて人気が沸騰、一躍大物の仲間入りを果たした。
- 全日本プロレス参戦期(1972-1981年)
1972年にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、同団体の常連となり、悪役として馬場、ジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクらと抗争を繰り広げ、「黒い呪術師」と呼ばれた。ハーリー・レイスとの抗争では、エキサイトのあまり会場を飛び出してのストリートファイトとなり、警察沙汰となったこともある。1977年の「世界オープンタッグ選手権」ではザ・シークとの「地上最凶悪コンビ」を実現させ、ザ・ファンクスとの抗争で二度にわたって馬場・鶴田組を押しのけてリーグ戦最終公式戦を戦った。1979年には新日本プロレスのトップヒールだったタイガー・ジェット・シンと組んで、プロレス夢のオールスター戦で馬場・猪木組と対戦した。全日本の春の恒例「チャンピオンカーニバル」でも2回優勝している。
一方で、ヒールでありながらサインや記念撮影に気さくに応じる独特のキャラクターと、憎めない風貌で絶大な人気を集め、テレビコマーシャルにも起用された(家族を日本に連れてきた事がないため、「日本では俺は人気者だ」と言っても全然信用されないらしい)。1979年の第8回チャンピオンカーニバル優勝戦でジャンボ鶴田を破り、優勝した時は嬉しさのあまり、普段は入室困難な外国人用控室にファンを数人招き入れ、一緒に記念撮影に応じたことがあった。
- 新日本プロレス参戦期(1981-1985年)
1981年にIWGPへの賛同を名目として新日本プロレスに移籍する。しかし、実際にリーグ戦にエントリーされることはなく、またアントニオ猪木との試合はかみ合わないことも多かったため、精彩を欠く存在となった。
- 全日本プロレス復帰(1987-1996年)
1987年に全日本プロレス復帰。90年代前半にはベビーフェイスに転向し始め、ジャイアント・キマラとのタッグが定着。さらに以前では考えられなかった馬場、鶴田とのタッグも実現した。
- インディペンデント団体参戦期(1996-2000年)
1996年、東京プロレス(第二次)に突如移籍すると、かつての凶器攻撃、流血戦が復活。同団体では高田延彦との異次元対決が実現した。その後、WARに参戦し、北尾光司と巨漢タッグを結成。大日本プロレスではアブドーラ・小林との師弟対決が話題となった。
- 現在(2001年-)
2001年のジャイアント馬場三回忌記念興行を機に、三度全日本に復帰。武藤政権になってからも参戦している。2005年のW-1では中嶋勝彦からも勝利を奪い、健在ぶりを見せつけた。
[編集] 特徴
タイガー・ジェット・シンとともに、日本のプロレス界に一大旋風を巻き起こした悪役レスラーの一人である。全盛期のファイトスタイルは、隠し持った凶器(フォークなど)で相手を流血させ、地獄突きなどの空手殺法から、「毒針」と表現されたエルボードロップでとどめを刺すというもの。空手の有段者であることをプロレスマスコミや団体は喧伝していたが、実際には地獄突きを教わった程度らしい。
相手を流血させるだけでなく、自らもよく流血した。そのため額は傷を負いすぎて皮膚が弱くなり、少し頭をぶつけただけでも流血するようになってしまった。昔の逸話であるが、ホテルのラウンジでブッチャ-が一人で佇んでいる時に他の客が入店し、ブッチャ-の存在に気付くや「プロレスは八百長なんだよ」と連れに言い始め、その日本語が通じたかは不明だがブッチャ-は飲んでいたグラスを握りしめ破損させ、自らその破片で額にあて流血させ更にその場で自分の流血の額を縫い始めたというエピソードがある。アメリカでステーキハウスを経営する事業家でもある。凶器のフォークを事業にも使っているというわけだ。
WCWにてタッグを組んでいたミック・フォーリーによれば、ブッチャーは打ち合わせの内容を覚えないので、試合前に打ち合わせすることはなかったという。また、自分で持ち込んだ凶器を入れた場所すら忘れたこともあったらしい。
私生活ではケチで有名なようで、遠征先でタイガー・ジェット・シンが同部屋に泊まり、シンが起きる前にホテルを出て、宿泊費を払わず、シンを激怒させたという。また、メシをおごれば気さくに話してくれるという一面もある。幼少時に貧困にあえぎ、多くの人にお金でだまされた経験による行動と言われている。
[編集] 岡田彰布との関係
阪神タイガース監督の岡田彰布に「こいつは、絶対に大物になる」とルーキー時代に賛辞を送り、交流がある。 岡田は今でも恩を感じており、2005年のリーグ優勝の際には祝勝会にブッチャーを招待するプランもあったが、実現はしなかった。しかし、ブッチャーは岡田自身がリーグ優勝へ導いた事を聞いて喜んでいたであろう。
[編集] ジャイアント馬場との関係
ジャイアント馬場との関係は彼に言わせると「葉巻友達」。(葉巻を吸うレスラーが少ないため葉巻の話をできるのは馬場くらいだった)会った時にはお互い手持ちの葉巻を1本ずつ交換して吸っていたという。
また、ジャイアント馬場が死去する少し前に、「ジャイアント馬場が自分に何か語りかけてくるが、何を言っているのか分からず声をかけると目が覚める」という夢を何度も見たそうである。入院したとは聞いていたので心配して見るのかと思っていたが死んだと聞いた時には本当に驚いたという。 この事については「俺が死んだら馬場に聞いてみるよ。『あの時何を言いたかったんだ?』って」とコメントしている。
[編集] 得意技
[編集] 主な獲得タイトル
- NWF世界ヘビー級王座(2度)(1972年にアニー・ラッドから奪取、同年にビクター・リベラから奪取)
- PWFヘビー級王座(1978年にビル・ロビンソンから奪取)
- モントリオール版AWA世界ヘビー級王座
- UNヘビー級王座(ジャンボ鶴田から山嵐流のバックフリップで奪取)
- NWA認定インターナショナル・タッグ王座
- NWA世界タッグ王座(デトロイト版)
[編集] 著書
- プロレスを10倍楽しく見る方法(1982/08 ワニブックス ISBN 4584200440)
- 続・プロレスを10倍楽しく見る方法(1982/11 ワニブックス ISBN 4584200521)
- ブッチャー 幸福な流血(2003/06 東邦出版 ISBN 4809403181)
[編集] 関連項目
- 世界オープンタッグ選手権
- 岡田彰布
- 力也
- エア・ギア(ブッチャーをモデルにした、「御仏一茶」というキャラが登場する。)