アフリカーナー
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アフリカーナー(Afrikaner)は、南アフリカ共和国に居住する白人のうち、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、宗教的自由を求めてヨーロッパからアフリカ南部に入植したプロテスタント教徒が合流して形成された民族集団。オランダ語を基礎にしてフランス語、マレー語、現地の言語等を合わせたゲルマン系の言語、アフリカーンス語を母語とする。かつてはボーア人(Boer ブール人とも)と呼ばれた。ボーア(ブール)とは、オランダ語またはアフリカーンス語で農民を意味する。主な宗教は改革派(カルヴァン派)に属するオランダ改革派教会である。
17世紀半ばにオランダ人がアフリカ南部沿岸部へ入植して、オランダ東インド会社によるケープ植民地が成立した。彼らがアフリカーナーの最初の源流といえる。のちにケープ植民地には、フランスのユグノーなど他のヨーロッパ諸国からのプロテスタントの移民も流入し、アフリカーナー(ボーア人)が民族集団として形成されていった。移民の出身国には、オランダ、フランス、ドイツの他、ベルギー、スカンディナヴィア諸国がある。
アフリカーナーは後に勢力をのばしたイギリスと対立した。ケープ植民地がオランダからイギリスに割譲され、イギリスからの移民が流入し、英語が公用語となると、彼らは言葉があまり理解できず、イギリスからは二級市民扱いされた。アフリカーナーはイギリスの支配を嫌ってグレートトレックと呼ばれる沿岸部から内陸部への再入植を行ない、再入植先でトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建国した。両国は2回にわたるボーア戦争でイギリスと交戦し、第一次ボーア戦争ではイギリスを退けたが、第二次ボーア戦争の敗北で両国ともイギリスの支配下に置かれた。
南アフリカ共和国の白人では、イギリス系が19世紀末から現在に至るまで金とダイヤモンドの鉱山経営によって経済面で主導的立場を担ってきたのに対し、1910年の南アフリカ連邦成立後、アフリカーナーは政治面で主導的立場を担っていた。しかし、アパルトヘイト撤廃によるマンデラ政権成立後はそのような状況が変わりつつある。アフリカーナーが政治面で主導的立場を担っていた時代、国民党によってアパルトヘイトが進められてきたが、その背景には、経済面でイギリス系に対して劣位に置かれたアフリカーナーが、労働市場など生活面一般で、黒人やインド系など有色人種に対して優位に立つためのものであった。
[編集] 近代の著名なアフリカーナー
- アーニー・エルス(ゴルファー)
- レティーフ・グーセン(ゴルファー)
- ジョン・クッツェー(小説家、ノーベル文学賞を受賞)
- リチャード・E・グラント(俳優)
- ゲリー・コーツィー(ボクサー)
- シャーリーズ・セロン(女優、アカデミー主演女優賞を受賞)
- フレデリック・ウィレム・デクラーク(政治家、1989年から1994年まで南アフリカ共和国大統領、ノーベル平和賞を受賞)
- クリスチャン・バーナード(医学者、世界で初めて心臓移植を執刀)
- ピーター・ウィレム・ボータ(政治家、1984年から1989年まで南アフリカ共和国大統領)
- アーノルド・ヴォスルー(俳優)
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