W・アヴェレル・ハリマン
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ウィリアム・アヴェレル・ハリマン(William Averell Harriman, 1891年11月15日 - 1986年7月26日)はアメリカ合衆国の政治家、外交官、銀行家。トルーマン政権の商務長官(1946年 - 1948年)、ニューヨーク州知事(1955年 - 1959年)。所属政党は民主党。
ニューヨークにエドワード・ヘンリー・ハリマンの子として生まれる。父のE・H・ハリマンは銀行家であり、ユニオン・パシフィック鉄道及びサザン・パシフィック鉄道の経営者であった。やはりウォール・ストリートの投資銀行の経営者であったエドワード・ローランド・ノエル・ハリマンは弟。グロートン校を経て1913年にイェール大学を卒業。イェールではスカル・アンド・ボーンズのメンバーであった。1915年に父の経営するユニオン・パシフィック鉄道に入社し、1932年には同社の最高経営責任者に就任した。一方で父の投資銀行を引き継ぎ、W・A・ハリマン社を創設、同社には弟のE・R・ハリマンやその友人で後に上院議員になるプレスコット・ブッシュ、ブッシュの義父ジョージ・ハーバート・ウォーカーが在籍していた。ちなみにプレスコット・ブッシュは第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュの父で、かつ第43代大統領ジョージ・W・ブッシュの祖父である。同社は1931年にブラウン・ブラザース社と合併し、ブラウン・ブラザーズ・ハリマンに改組した。
ハリマン家は共和党支持の傾向が強く、特に弟E・R・ハリマンは熱心な共和党員であったが、アヴェレルはフランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領のニューディールに共鳴する民主党員であった。1934年にハリマンは政界入りし、全国復興庁(NRA)に入庁した。1935年に同庁及び全国産業復興法は連邦最高裁で違憲とされ、NRAは解散された。だが1937年には商務省に入り、再び政策立案に関与するようになる。1941年にアメリカが第二次世界大戦に突入すると、外交で活躍するようになる。彼はヨーロッパへの大統領特使として派遣され、戦争遂行についてウィンストン・チャーチル英首相と協議した。1943年、ルーズヴェルトはハリマンを駐ソヴィエト大使に任命し、1946年まで在職した。大使として、彼はチャーチルやヨシフ・スターリンら連合国の首脳間の調整を行った。大戦末期、ソ連軍が中東欧諸国を占領していく中、ソ連の拡張に危機感を抱きワシントンに警告した最初の人物の一人が駐ソ大使であったハリマンである。彼はトルーマン・ドクトリンやマーシャル・プランなどの冷戦政策に大きな影響を与えた。
1946年、ハリマンはヘンリー・ウォレスに代わって商務長官に指名され、1948年まで在職した。同時にマーシャルプラン遂行の責任者に任命された。1952年には大統領候補としての指名を求め、民主党大会でニューヨーク州、アイダホ州、ワイオミング州、ユタ州の代議員団の票を獲得したが、アドレー・スティーブンソンイリノイ州知事に敗れた。1954年、トマス・デューイニューヨーク州知事がこの年の知事選に出馬しないことを決めると、彼は立候補し、共和党候補でデューイの後援を受けたアーヴィング・アイヴス上院議員を破った。しかし、1958年にはネルソン・ロックフェラーの前に敗北し、彼のニューヨーク州知事としての任期はわずか1期であった。1956年にも再び大統領候補指名争いに加わり、トルーマン前大統領の推薦を受けたが失敗した。
1961年、ケネディ政権が発足するとハリマンは無所任大使に任命され、次いで極東担当の国務次官補に就任した。続くジョンソン政権でも同職にとどまったが、閣僚も経験し、外交官としてのキャリアも豊富なハリマンにとっては地位の低いポストであり、事実ケネディ、ジョンソン政権で彼は軽んじられてきた。だが、北ヴェトナムとのパリ和平交渉がスタートすると彼はキャリアを生かし、重要な役割を果たした。
その後はプライベートな生活に戻り、1986年に死去した。
- アメリカ合衆国商務長官
- 1946 - 1948
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- 先代:
- ヘンリー・A・ウォレス
- 次代:
- チャールズ・ソーヤー
- ニューヨーク州知事
- 1955 - 1959
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- 先代:
- トマス・E・デューイ
- 次代:
- ネルソン・A・ロックフェラー