黎邦基
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姓名 | 黎邦基(黎基隆) |
廟号 | 仁宗 |
諡号 | 欽文仁孝宣明聰睿宣皇帝 |
陵墓 | 穆陵 |
王朝 | 後黎朝 |
年号 | 大和または太和 1443年-1454年 延寧 1454年-1459年 |
生没年 | 1441年-1459年 |
在位 | 1443年-1459年 |
黎邦基(れいほうき、Lê Bang Cơ、1441年-1459年)は、またの名を黎基隆といい、ベトナムの後黎朝(Nhà Hậu Lê)大越国の三代皇帝(在位 1443年-1459年)である。黎元龍の三男として生まれた。廟号は仁宗といい、このため黎仁宗(Lê Nhân Tông)とも称される。
父黎元龍の死後、即位すると、大和と改元した。このとき年はわずか二歳であり、宣慈太后が摂政した。宣慈太后の施政により、国内は比較的安定し、私人田産法十四条を制定した。またチャンパ王国の侵攻を撃破し、チャンパ王を生け捕りにした。しかし、太后は讒言を信じて、功臣の黎可らを殺し、大臣の憤激を引き起こした。1453年、仁宗が親政を開始した。
1455年、潘孚先に国史の編纂を命じて、『史記続編』を完成させた。また百官の俸禄と王侯の封地の法を改めた。
1459年、仁宗と宣慈太后は、諒山王黎宜民のために殺された。
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | ベトナム史の人物 | 1441年生 | 1459年没