高松塚古墳
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高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県明日香村に存在する古墳。直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。
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[編集] 発掘調査
1972年(昭和47年)3月21日、奈良県立橿原考古学研究所の網干善教氏らを中心とした関西大学と龍谷大学の研究者・学生グループによる発掘調査が行われた際に鮮やかに彩色された壁画が発見されたことで知られる。古墳は1972年6月17日、特別史跡に、また極彩色壁画は、国宝に指定されている。 そもそものきっかけは、村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、古い石が見つかったことが発端である。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになり見つかった。
[編集] 古墳の年代
盗掘を逃れて残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期と推定されていたが、平成17年の発掘調査により、藤原京期(694年~710年)の間だと確定された[1]。
[編集] 被葬者
いろいろな説があり特定されていないが、形状が円墳と確定されたことから皇族や議政官クラスの人物と考えられる。遺骨や壁画などの物象から、最も有力な候補は刑部皇子(天武天皇第4皇子)であるとの考えもある。しかし現在では、人物群像の持っている蓋(きぬがさ)の色や房の状態から被葬者は一位(従一位・正一位)の人物であると考えられることや人骨と歯の状態から被葬者を40-50代とする人類学者の鑑定結果等を考慮すると、白石太一郎氏らは石上朝臣麻呂(いそのかみあそんまろ)である蓋然性が極めて高いとしている。左大臣石上万呂は、養老元年(717年)3月3日、77歳の高齢で亡くなっている(『続日本紀』)。また、死後元正天皇から(当時は)臣下として最高の位である従一位を贈られている。587年蘇我氏に滅ぼされた物部氏の後裔である。他方、被葬者の想定となると皇族や当時の高官が取り上げられがちだが、渡来人の可能性もあるとして百済王家の人物(百済王氏、くだらのこにきしうじ)を想定する学者(千田稔氏)もいる。
[編集] 石室・壁画
石室は、平面の内寸は103.5cm×265.5cmで、高さが113.4cmあり、横口式石槨と呼ばれる系統に入り、平らな底石の上に板石を組み合わせて造ってある。横口式石槨の系譜には、鬼の俎板(まないた)・厠(せっちん)、斉明陵と推測されている牽牛子塚(けんごしづか)古墳、天武・持統陵、キトラ古墳などが入り、7世紀前半の中頃から8世紀初頭まで続いている。
壁画は、北壁の中央には玄武が、南壁に朱雀のはずだが鎌倉時代の盗掘にあい上の方に大きな穴が開けられている。東壁の中央に青龍が、その上の方に太陽、そして、左側に女子群像が、右側には男子群像が描かれている。また西壁の中央に白虎が、その上の方に月が、そして、右側に女子群像が、左側には男子群像が描かれている。 人物群像の持ち物が『貞観(じょうがん)儀式』にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人(とねり)ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。
天井には天体図や星宿が描かれており、極めて精度の高いものである言う。中国の唐の壁画墓の影響が見られるという。
[編集] 壁画の劣化、今後の課題
発掘調査以降、壁画は現状のまま現地保存することになり、文化庁が石室内の温度や湿度の調整、防カビ処理などの保存管理、そして1981年以降年一回の定期点検を行ってきた。しかし、2002年から2003年にかけて撮影された写真を調べた結果、雨水の浸入やカビの発生などにより壁画の退色・変色が顕著になっていることが2004年(平成16年)に明らかにされた。
この事態を受けて、文化庁により「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策」を目的とした古墳の発掘調査が始まり、埋もれていた周溝などが発見されて古墳の本来の形状が明らかにされつつある。また、墳丘からは過去の地震によると思われる亀裂が多数発見されており、虫や雨水の進入経路になったと考えられている。
壁画の劣化防止策や保存方法について種々の検討が続けられた。特別史跡(古墳)と国宝(壁画)のいずれを守るのか議論が行われたが、2005年(平成17年)6月に文化庁は現況保存を断念し石室の解体補修を決定した。一部には、キトラ古墳同様に壁画を剥ぎ取って古墳外で保存すべきだという意見もあるが、計画では修復後に現地に戻すことになっている。
[編集] 記念発行物
- 特殊切手
- 20+5円付加金付きが2種類、50円+10円付加金付きが1種類、1973年3月26日発行された。
- 写真はがき 200円
- 20+5円付加金付きが2種類、50円+10円付加金付きが1種類、1973年3月26日発行された。