陸秀夫
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陸秀夫(りくしゅうふ、1236年 - 1279年)は、南宋末期の重臣で、文天祥や張世傑らと共に南宋における三忠臣(亡宋の三傑)の一人として数えられる人物。
1276年、バヤン率いる元の軍が南宋の首都臨安に迫ると、和睦の交渉をすすめて国難を救おうとしたが失敗。同年1月、臨安は無血開城し、南宋皇帝の恭帝は元に降伏するが、宋王朝の滅亡を潔しとしない陸秀夫は、前皇帝度宗の遺児を連れだして臨安を脱出、南方に逃れ、張世傑と協力して亡命政権を打ち立てた。
しかし、亡命政権は内部が安定しなかったうえ、1278年には皇帝として擁立した端宗が病死してしまうという非常事態まで発生してしまった。このため、陸秀夫は端宗の幼い弟衛王を皇帝として擁立し、自身は宰相となってなおも抵抗運動を続けたが、1279年、南宋残党を追撃する元軍の猛攻の前に遂に南宋の滅亡は決定的となり、崖山の戦い(現在の広東省新会市)において自身の妻子を殺した後、自分も幼帝と共に海に身を投げて自殺した。
日本の壇ノ浦の合戦にも似た崖山における陸秀夫と幼帝の悲劇的な最期は、現在においても多くの人々に哀惜の念を与えつづけている。古くから伝わった筝曲に「崖山哀」という曲目があるぐらいである。崖山を生き延びた張世傑もまもなく死に、南宋最後の抵抗は儚く潰えることになる。