門戸開放通牒
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門戸開放通牒(Open Door Notes)とは、19世紀末から第二次世界大戦までアメリカ合衆国がとった対中政策である門戸開放政策(Open Door Policy)の一環として示された二度の通牒。「門戸開放宣言」との表現もあるが、実際は通牒(Note)を各国に送付したのみであり、あまり適切な表現とはいえない。
[編集] 背景
19世紀半ばに自由貿易体制を整えて「世界の工場」としての地位を固めていたイギリスと、19世紀末には重工業においてイギリスを凌駕するにいたったアメリカは、どちらも中国における機会均等、自由貿易を望んでいた。そのため、日清戦争の清敗北を契機に起こった列強の中国分割は、経済的観点からすると望ましいものではなかった。
そうはいってもイギリスは、自らが香港、長江流域などに広大な独占的権益を確保しており、機会均等を主張できる立場にはなかった。アメリカは1898年の米西戦争でフィリピンを獲得、中国進出に足がかりを築き、市場進出への機運が高まっていたこともあり、迅速に自国に有利な国際状況を形成しようとした。
[編集] 内容
こうした経緯で、イギリスの働きかけもあってアメリカの国務長官のジョン・ヘイが、1899年にイギリス、ドイツ、ロシア、日本、イタリア、フランスの6国へ通牒を送った。これが第一次の門戸開放通牒である。第一次の通牒は、列強による中国分割自体を否定したものではなく、経済的な機会均等を訴えたものであった。
しかし、翌1900年に中国で民衆による排外運動である義和団事件が勃発する。列強がこれを鎮圧するために派兵を図る中、アメリカは第二次の通牒を発した。ここでは経済的な機会均等に加え、列強が政治的に中国を分割することに対しての反対(領土保全)が強調されている。中国へ市場進出を果たすためには、中国においてなんらかの一国が強い勢力を有することは望ましくない。そのため、この通牒を通じて中国大陸における勢力均衡を図る狙いもあった。